非暴力的態度という思考実験
NVCを人間以外で試したら?
昨日、NVC(非暴力コミュニケーション)を説明する記事を書いていて、ふと「NVCを対人だけでなく、対非人に拡張するとどうなるのか?」という疑問が沸いたので思考実験してみた。
たとえば、農作物を作っている畑で、カメムシやイモムシなどの害虫と呼ばれる存在を見つけたとする。
一般は駆除されるところを、NVCを拡張してみることを考えると、人間側としては、農作物を安心して育て収穫したい、というニーズがある。
一方、虫側としては、生存のために食料を得たい、というニーズがある。
これまでは、この対立構造で、一方的に人間側が虫側を駆除し蹂躙する、というものだった。
ではNVCではどうなるか?お互いのニーズを満たし合うストラテジーを目指すのであれば、
虫を一方的に駆除するのでなく、彼らの生存を脅かすことなく、どう共存できるかを考えるはずだ。
たとえ、殺虫剤ではなく忌避剤で虫を遠ざけたとしても、それだけでは、彼らの食料を得るというニーズは満たせない。
では部分的に虫たちの食料となる作物の緩衝エリアを設け、そこは自由にお食べください、とするのはどうだろうか?
そもそも「すべて根こそぎ人間が収穫します」という発想自体が暴力的なのだろうか?
そういえば、昔の人は庭の柿の木があっても、鳥が食べる分は残しておこう、と考えていたそうだ。これも実はNVC的ではないだろうか?
こうやって、すべての存在に対して非暴力的な態度で接することは、コミュニケーションというよりは、姿勢・態度かもしれない。
ならば、このような態度で物事に取り組むことを、NVA(Non-Violent Attitude:非暴力態度)と呼んでみたらどうだろうか?
無生物へもNVC・NVA
NVC・NBAは無生物にも拡張できるかもしれない。
たとえば、そこに石があるとする。
今までは、その石が邪魔なら、どかしてしまっただろう。
しかし、NVAのレンズで見てみると、
そこに石がまさに今あることを尊重する。
そこに石があるのは、
様々な縁があって今その石が存在すると考え、存在を尊重する。
何かのニーズを満たそうとする時、
その場にあるものを使って考え工夫することをブリコラージュと呼ぶが。
NVAの観点からみると、
その場にあるもので済ますということは存在の尊重に繋がる。
同じように、その場に存在する生物、無生物にかかわらず、
今その場のすべての存在を尊重し、
その上で自分たちのニーズをどうやって満たそうとするかを探るのが
NVA的発想ではないだろうか。
すべての存在とのコミュニケーション
『一万年の旅路』や、トム・ブラウン・ジュニアの著作を読むと、ネイティブアメリカンの人々は、すべてのものに魂が宿り、コミュニケーションできると考えているのがわかる。
弓に必要な木材を探す時には、
弓に最適な若木を森のなかから単に選ぶだけでなく、
取り除くことで、森がより生き生きする木をあえて見つけて選ぶ。
道具のために単に木を伐採するのとは異なり、
常に全体の調和を考えて行動している。
自分のニーズを満たすだけでなく、
相手(森)のニーズを満たすことで、互いのニーズを満たし合う。
僕たちは、単にこのスキルを忘れてしまっただけかもしれない。
実はこの発想は、ここで思考実験したNVAの発想ではないだろうか?
すべてのものに命があると考え、
すべてのものを尊重し、
そして自分たちのニーズを満たそうとする。
そういうレンズで物事を見てみたら何が変わるか、
少し実験してみたい。
皆様のサポートによって、より新たな知識を得て、知識と知識を結びつけ、実践した結果をアウトプットして還元させて頂きます。