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ひとりのエンジニアとして生成AIについて思うことなど

早起きすると何かが思い浮かびがちってことで、最近の生成AIによる変化に関して、さっきなんとなくまとまってきた考えを書き残しておきたい。

先に断っておくけれど、有益な情報はまず載っていないと思っていただければと。そういうのは ChatGPT にでも聞きに行ってくだされ。ここに書くのは n = 1 の情けない言葉であり、そういうものこそ手を動かして書く意味があると思ってる。もはや「意味とは」という世界線ではあるけれど、少なくともぼくにとってはそれが大事であるっていうね、だけ。


ぼくがエンジニアになった大きなきっかけは、大学の学園祭実行委員で経験した Web 制作の活動だ。HTML / CSS を使って Web ページを生成する活動はとても面白く魅力的だった。あえてもう少し強調すれば「HTML / CSS といった技術要素によって構成される Web ページというものを作る活動そのもの」がぼくにとってはとても面白いものだった。

時間がある時に「なんでエンジニアに?」と聞かれるとよく喋っているが、ぼくは突き詰めれば float プロパティに感動したからエンジニアになったんだと思っている。大抵の HTML / CSS の指南書は、まず要素が縦に並んでいくよね、文字色や大きさ変えられるよね、みたいなところから始まるが、これらを学んだところで「いや、これだけではあのインターネットに転がっている Web ページにはならんやろ」と退屈に襲われてしまう。float を学ぶと縦にしか詰めなかった要素が横並びなってくれて、そこから急激に Web ページの表現の幅が広がる。ああ、確かにこれ使って表現していけば Web ページって作れるのかもしれない、という気持ちにさせられる。今となっては flexbox とか要素をフレキシブルに並べる方法なんて色々あるからまあだいぶ古臭い話だろうけれど、あの感動がなかったらエンジニアになっていなかった可能性も全然あるくらい、当時のぼくにとってプリミティブで大切な驚きだった。

その後、インターン先のご厚意で プログラミングスクールに通わせていただき、Ruby on Rails を通してサーバーサイドの処理を学んだ。すっかり IT に興味津々になったので、そのまま就活も IT エンジニアで職を探し、気づけば AWS を扱うインフラ (クラウド) エンジニアになっていた。

いろんなところでいろんな技術を学び、IT の世界にのめり込んでいったわけだけれど、ぼくは結局のところ、世界の裏側で何が動いているのかを理解する楽しみとそれを自分で使って遊ぶことの楽しみに囚われて、そのために IT がやりたい人だったのだと思う。クライアントサイド (あるいはインターフェース) からはじめ、サーバーサイドの処理を知り、さらに下にあるネットワークやインフラの世界を知るという学習の流れがなんの因果かそれなりに優秀だったのもあると思うが、一段ずつ階段を降りて世界の秘密を知っていくような楽しみがそこにはあった。

そして自分の、あるいは誰かのやりたいことを一度抽象化し、for 文と if 文で再構築して現実に動くものに実装していくこともまた楽しかった。つい数日前、文芸部に所属していた高校生ぶりに小説を書く機会があり、2, 3 日かけて 6,000字ほどを一気に書いていたのだけれど、小説を書く作業とプログラミングはどこか似ている気がした。記述したい世界が最初にあって、言語を使ってそれを定義していく営みなわけだから当然なのかもしれないけれど、小説を書くときの、言葉を選び、慎重にはめ込む先を探し、パズルのようにぴたりといくものを探し当てていくときの思考はプログラムを書く時によく似て楽しかった。

そう、だからきっとぼくのような人は、知るプロセスや作るプロセスそのものの楽しさに魅入られてしまう人で、それによって得られる結果とか、人に褒められて嬉しいとか、割とそういうのが、どうでもいいタイプの人間なのだと思う。堂々と書くことではない気もするし、一応言い訳すると、そういうことの大切さを全く持っていないわけではない。というか褒められるのは嬉しいし、承認欲求は高めではある。ただ比較すると、誰かの役に立つ・誰かに褒められることよりも、何かを知る・作るということのプリミティブな喜びの方が、原動力になっている感じがするのだ。

久しぶりに書いた小説は誰のためでもなくて、まさに自分のために書いたものだった。自分の頭の中にあった心象風景をそのまま取り出して小説にしてみたものだった。時間がなさすぎて勢いのまま書き殴ったところがあり、そのままでは恥ずかしいのでちょっとまだ note で公開とかは考えていない。逆に言えば、恥ずかしいくらい自分のための何かを作るのは、随分と久しぶりだった。非常に大変で、非常に楽しかった。


生成 AI の話に戻っていくわけだが、最近のぼくは、割と生成 AI の登場に「ビクビク」しているタイプの人だった。ChatGPT は Plus 版にお布施してるし、壁打ち相手としてアイディア出しを手伝ってもらったりもしている。けれど、ワクワクしているかと言われると、そういう感覚もなく、どちらかといえば恐怖に近い感情がずっとあった。技術の発展にはそれなりに楽しみを覚えるタイプの人間だと自覚していたのでこの感じがどうにも居心地悪く、ここしばらくあんまり向き合わないようにしていたところもある。

生成 AI に仕事を奪われる恐怖、ということなのかと思った。いや確かに、そういうことではあるのだと思う。ChatGPT と話していると「なんやこれ、もう、わしいらんやん」と思う機会がよくある。最終的にはきっと、ChatGPT のような生成 AI が作った結果をチェックして「OK」とハンコを押す責任取りみたいな仕事に、この今自分のやっている仕事は変わっていくのだろうな、という気がするし、最終的にはハンコもいらなくなって、ぼくの介在する余地はなくなってしまうのだろう。その頃には「AI に全部任せて人間様は楽しいことだけしようぜ」という世界になっている気もするけど、うまくタイミングが合わなければ、楽園に向かう列車からこぼれて地を這う虫になる気もする。まだ 30 手前、先は長い。見ないふりは流石に難しい。

ただ久しぶりに小説に向き合うことを経て微妙に変わったのは「奪われて困るもの」がなんなのかという認識で、仕事 = 食い扶持という実際的なものよりも「自分が好きだ・面白いと思っていることに人生の時間を費やすこと」みたいな、もうちょっと根源的な部分での喪失感なのかなという気がしている。

言ってしまえば、for 文と if 文を書きたい人なのである、多分。面倒ごとをなくすためにプログラミングをやる、究極のめんどくさがりなのだ、IT エンジニアという人種は!! みたいな話はあるし、それにも同意する部分は大きいけれど、for 文と if 文を書くという面倒が意外と好きだったりもするのだ。これはもはや趣味趣向であって、いいとか悪いとか、そうすべきとかしないべきとか、そういう範疇の話ですらない。ぼくは for 文と if 文を書くのが割と好きだし、AWS のドキュメントを読んで Terraform に詳細な設定値を仕込んでいくプロセスがそれなりに好きだし、もっと言えば思考のスピードに合わせてキータイプする心地よさに酔うのが好きでもある。

たまたま今、そういう面倒ごとを好き好んでやりたい人がいなかったところに自分が収まっているおかげで、楽しいことをしながらお金を稼げている。大小不満はあれ、今ついている職をなんだかんだ続けられているのは、そういう状況があるおかげだろう。

でも多分、ChatGPT が、あるいは生成 AI が当たり前になってくると変わってしまう。「そんな面倒ごとは私たちにお任せください」とシャシャリ出てくる AI ちゃんたちに、気持ち良いキータイプの感触を奪われるのだ。タイピング ASMR とかもはやなくなるんだよきっと。あるいは誰もタイピングなんてしてないのに AI がぽい音を立てた音源を用意して、YouTube に上がったそれをみんなが聞くのかもしれない。いやいいんだけど。全然それでいいんだけど。楽しくキーボードを叩いていた人間からすれば、猿みたいにキャッキャ言いながら出っ張りを押す作業を奪われるのは悲しい気がする。

「だったら趣味でプログラムを書いていればいいじゃん」と言われるかもしれないけれど、ここがまた面倒なところで、プリミティブな心地良さを求める一方でどこまで行ってもそれがツールである、という側面は拭えないのである。

例えば野球選手は多分、ボールをバットで打つ瞬間の心地良さに囚われていると思う。ではその人に「ボールを打つのが気持ちいいなら、天井から玉吊るしてそれ打っとけば?」と言うのは、多分違う。ボールを打つ気持ちよさと、それがもたらしてくれる「勝利」や「チームメイトと協力する楽しさ」みたいなものをひっくるめて、野球というものをするんだと思うから、一側面をきりとってそれだけ楽しむことはなかなかできない。

プログラムについても結局「何かの課題を解決する」という使命を負っている以上、そのためにやらないと楽しみきれない。そして誰かの課題を解決しようと思うと、どうしてもスピードが必要になってくるし、そうなると AI を使わないという選択肢は無くなってくる。だって明らかに早いんだもの。きちんとやったことはないけれど、モック的なサービスを作るだけだったら 30 分もあればそれっぽいものが作れてしまう世界線にもう、なりつつある。誰にも使われないサービスを作る虚しさには勝てない。

プログラムと小説を作るプロセスが似ていると言ったが、致命的に違うのがこの辺り。つまり価値がどこにあるかという話で、プログラムは入力に対する出力が合っていればよくて、それは何かを解決すればよくって、誰がどうやって作ったとか究極的には関係ない。小説は、誰がどうやって書いたか、というところに価値が生まれうる。ここでこの言葉を選んだ、というところに個性が生まれて、それ自体が価値になりうる。もちろん言葉を選ぶことが必ず価値になるという話ではないし、プログラムの書き方自体に価値が生まれ得ないとも言わないし、生成 AI が生んだ小説を dis りたいわけでもない。あくまでも価値の存在する余地やその面積の話でしかないわけだが。


話がごちゃついてきたが、まとめると ChatGPT に対してぼくが感じた恐怖は人生の多くの時間を自分にとって楽しいことで埋められなくなるかもしれない、という思いで、それはおもちゃを取り上げられそうになる子供のような感覚で、それゆえに根源的で拭いがたい恐れだったのだろう、ということだ。

明日職を失うわけでもなく、食い扶持がなくなるわけでもなく、人によってはこれを甘えた気分だなあと捉えるかもしれないが、ぼくにとっては大切な感覚だろうと思ったので、ひとりのエンジニアとして n = 1 として、思ったことを忘れないうちに書き残しておく。

おもちゃを取り上げられた子供がするのは新しいおもちゃを探すことで、目の前には ChatGPT やら Midjourney やらアホみたいに面白そうなおもちゃで遊んでいる人たちがたくさんいて、自分から楽しいおもちゃを奪おうとしているかもしれない生成 AI を新しいおもちゃにするという考えはなかなかディストピア的で面白いじゃないか、というお気持ちでいながら、まあそろそろきちんと手を出して遊んでいかねばなと大人なぼくは思っているということも、最後に付け加えておく。

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