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人にモノを教えることの気持ちよさと戦え

何かをするとき、その気持ちよさに自覚的でないといけないと思っている。特に、人に影響することに関して言えば。

これは最近あった何かを思い浮かべて書いている文章ではなくて、ぼく自身の過去や、人に向かってきた時間を考えてまとめている文章である。

人に何かを教えるとき、語りすぎてしまう人をよく見かけてきた。そして自分自身、そういうことをしてきた自覚がある。人に頼られるのは嬉しい。気持ちの赴くままペラペラペラと、知っていることを 0 から 1000 まで伝えようとする。どうしてこういうとき、人間の舌というやつはあんなにも滑らかに回るのか。

一通り弁舌を振るった後、さあどうだと目を向ければ、そこに眉を寄せながら、それでもなるほど、とつぶやいてくれる相手を見つける。ああ、やってしまったと、罪悪を覚えるならまだいい方で、なるほどとつぶやく優しさに甘え、さらに言葉を重ねるようなら、それはもはや暴力的でさえあるかもしれない。

混乱に困惑を重ねさせて、なお何かを足していこうとするのは間違っていると、気付けないことは多い。質問した人が望むのはあくまでも疑問や課題の解消であるはずなのに、自分が気持ち良くなって終わってしまう残念なコミュニケーションをどうしたら抜け出していけるのか。

少なくともまずは、自分の行為が「気持ちのよいこと」であると、わかることからしか始まらない。やめられないのは、気持ちよいからだ。人に自らの知識や考えを求められ、応えて言葉を紡ぐことが、とても心地のよい体験であることを自覚しなければいけない。人を使い、自らが気持ちよくなるという体験であるということを、である。

そして、その気持ちよさを自制しなければいけない。質問を受けている立場で何かを我慢しなければいけないというのも変な話だが、しかしそうなのである。感じ取るべきは雄弁なる自らの語りではなく、相手の表情であり、言葉であり、彼/彼女の頭の中に構築されていく理解だ。この場ではいかにうまく説明できたかではなく、相手がどれだけ理解できたか、だけが指標になるのだと、自らに刻み込まなければいけない。

頭の中を想像するのだ。頭蓋を開くとそこに、彼/彼女の理解が書き込まれている。その状態を観察する。あまりにもたくさんの言葉で、ぐちゃぐちゃになっているかもしれない。途中まで書かれて止まっているかもしれない。必要なピースが足りないかもしれない。多くの場合、そこは何かが書かれている。何も書かれていないなんてことはほとんどない。0 から全てを話そうとする人は、これが理解できていない。何かが描かれている紙面に上から何を書き加えても、余計に紙面は汚れ、黒々と潰れていくばかりだ。

だから、何が書かれているのかをまずは把握しないといけない。物理的に頭蓋を開けるならいいけれど、それは当然不可能だから、結局コミュニケーションでどうにかするしかない。つまり、質問をするしかない。

「何に悩んでいるの」「どこまで考えたの」「どんな選択肢があるの」「何がわかっているの」「何がわかっていないの」いろんな聞き方がある。いろんな角度や言葉がある。頭の中を探り、想像する。

そうしてなんとなく相手の頭の中が見えたとき、初めてどうするかを決める。ぐちゃぐちゃになっているなら、整理整頓する手伝いをする。途中で止まっているなら、次の一歩を教えてあげる。必要なピースが足りないなら、ここが抜けているよと指摘してあげる。多くの場合、その程度のちょっとしたサポートで物事は前に進んでいく。

実は頭の中を探る過程の中でごちゃごちゃになった紙面に整理がついて、もはや何をする必要もなく本人の中で解決してしまうことも多い。こういうとき、人に教える気持ちよさは味わえない。もしかしたら徒労感を覚えるかもしれないが、まあそういうもんだと思うしかない。

少しでも気持ちよさを味わおうと、余計な教えを授けようなんて考えてはいけない。「ついでに言うと」「今は理解できないかもしれないけれど」なんて枕詞には要注意。甘い蜜を吸わんとする卑しい心を自覚して、静かに黙っておくが吉。本当に相手の役に立っていたなら、きっと黙っておいた困難に彼/彼女がぶつかったとき、またきっと頼ってくれるから。そのときに、そっと教えてあげればよいのだ。

人にモノを教えることの気持ちよさと、戦う意志を持つ必要がある。たまに敗北することはあるけれど、負けっぱなしではいけない。教える気持ちよさに立ち向かわなければ、いつか人に頼られる喜びごと、全部失うことになる。


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