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ブックレビュー「ネクスト・シェア ポスト資本主義を生み出す「協働」プラットフォーム」

この本の原題は”Everything for Everyone”で、副題は”The Radical Tradition That is Shaping the Next Economy”。すなわちポスト資本主義として古くて新しい協働プラットフォームである協働組合について語っている。

著者は「ニューヨークタイムズ」や「ニューヨーカー」で経済、技術、宗教についての執筆活動を行うジャーナリストでコロラド大学ボルダー校メディアスタディーズ学部助教授のネイサン・シュナイダー

著者の祖父は金物関係の協働組合を設立した歴史があるが、ネイサン自体が協働組合に興味を持ったのは、2011年の「ウオール街を占拠せよ」などの講義活動家が作り始めた協働組合だった。本書でネイサンは過去から現在に至るまでの協働組合の最前線を紐解く。自分たちが働き、買い物をし、お金を預け、あるいは集まる場となるビジネスを、人びとがリスクと報酬を分かち合いながら所有し統治できる、そういう形態としての協働組合だ。

これは現代主流となった投資家が所有する企業とは異なるモデルだ。企業という形態は、所有と経営が分離されている。このことで世界の労働者の85%が自分の仕事に当事者意識を持てていない。コンサルタントがやっきになって「オーナシップ(当事者意識)」を植え付けようとしたり、ウオルマートが社員を「アソシエイト」と呼んだところで労働者はオーナーでは無い。せめて部分的な従業員持ち株制度を導入すればまだマシかもしれない。

面白い例示として、著者が型落ちしたノートパソコンにオープンOSであるUbuntu(ウブントウ)をインスト―ルした際の故障に対する感じ方だ。「MacBookだったら怒り心頭には発したようなことでも、今は腹が立たない。」、「コミュニティが作ったソフトウエアの場合、責める相手は自分たちしかいない。私たちは完璧ではない、でも努力し続けている」。まさにここに本当のオーナシップの萌芽が見える。自分の持つ不満を「会社のせい」にはしないのだ。

資本主義が投資家のための利益の追求を最優先事項とするシステムであるとすれば、協働は全く異質なものということになる。協働組合は富だけで無く、参加にも説明責任を負う。株式会社は所有者が金銭的な利得だけを求めると想定しているが、貧困や気候変動のような市場の都とにある生死の問題を引き受けるつもりなら世界を人間の目で見られるプラットフォームが必要だ。

著者は先史時代は皆が協働していた時代だったとか、生物が生き残るには過酷で孤独な競争ではなく共生と社会性にこそ価値があったと強調すうることの誘惑を否定する。私たちの歴史は友好と殺し合いの連続だった。

歴史的に協働組合的な団体は、キリスト教会、ギルドなど枚挙を問わない。しかし新世代の協働組合はネット時代に合わせてオープン性を特に重視する。歴史的に協働組合は規模が大きくなるにつれ官僚的になり、組合員の意見を吸い上げるという建前にもかかわらず意見を出しにくくしていった。生命保険の相互会社が最たるものだろう。これに対して新世代の協働組合は困難な挑戦に説明責任を負うために、マルチステークホルダーによる複雑な所有権構造を採用する。ある協働組合は「地球」をステークホルダーに挙げている。単に組合員や組合員の周辺のサービス提供だけでなく、世界に役立つよう、厳しい認証取得を課したり、資産を持たないよう共有資産をシェアする。

彼らは破壊的変革に憧れを持つスタートアップ企業とは異なる。ハイテク企業には、協力から始まったイノベーションが多くある。エアビアンドビー、カーシェアリング、クラウドファンディング、ソーシャルネットワークといった企業が生まれた分野は以前であれば協働組合に頼っていた分野だ。問題は彼らが協働組合がやっていたような顧客や従業員からよりも、外部投資家から資金調達する簡単で割安な方法を選んだことにある。外部投資家からの資金調達は貸し手が借り手よりも有利になる。これに対して新世代の協働組合は、生きるために必死な他者に対して仲間として責任を負う。貸し手は貸し手のまま、借り手に対して優位性は持たない。

昨日友人と話をしている中で、江戸時代のシステム、領地所有権を幕府が握り、外様大名をコントロールする仕組みの合理性と協働組合の違いについて議論となった。一見すると江戸時代のシステムは個々の所有権を認めない協働の仕組みのようにも見えるが、結局今のサラリーマンのように個々の構成員の責任は限定的だった。それでも当初は合理的に動いていた仕組みが崩壊する歴史的な教訓の多くは中央政府と組織内の腐敗だった。これらはそれらを防ぐガバナンスの仕組みというものが無い、あるいはうまく機能していなかったからだろう。

また組織は規模が大きくなるとコントロール不能に陥ることも同様だ。企業でも500名ぐらいを境に大企業病が生まれると言われることが多い。大企業を分解した子会社が権限移譲の仕組みとして有効だった時期もあっただろうが、時間が経つとそれも形式化し腐敗していく。

新時代の協働組合が過激なまでにオープン性を重視するのはこういった歴史的教訓を学んだ新しい方向性として興味深い。イタリアのマテーラの古代洞窟が実験の場となった「アンモナストリー」、中世のギルドをモデルにした「プライム・プロデュース」、アルゼンチンで復活した工場に学んだ「ニュー・エラ・ウインドウズ協働組合」、エンリック・ドウランの「カタラン・インテグラル・コーポラティブ」(CIC)、ミシシッピ州マグノリア電力協会、コロラドケア、ミシシッピ州ジャクソンのルムンバによるジャクソン・クッシュ計画、エクアドルのFLOKソサエティ

テック・スタートアップがベンチャーキャピタリストに取り込まれ「民主的な統治と所有権」の協働組合原則を満たすことができない中、新しい動きとしてプラットフォーム協働組合(プラットフォーム・コーポラティズム)の運動がある。既存企業のエグジットとしても協働組合は選択肢となりえるのだ。実際、著者はデジタル民主主義への挑戦として、ツイッターをユーザーが協働所有する、というアイディアを提供、実際にツイッターの株主総会に提案書を起草、2017年の株主総会招集通知にその提案は入り、5%の票を得た。

しかしこららすべてがうまく行くわけでは無い。

面白いことにシリコンバレーはベーシックインカムに肯定的だ。「官僚機構をほとんど介入せずとも貧困がなくなり、格差を縮小することができる。受給者は手持ちの時間とリソースが増え、起業を思い立ったり家族の世話をしたりする」。中には遊んで暮らす人もいるだろうが、エグゼクティブ層に魅力なのは「消費需要を不完全雇用者からも確保できるだろうという点だ」。ベーシックインカムは人道的で平等主義のコモンウエルス待望論にアピールするが、誰が何を所有し、統治するのは誰なのかについては答えが不明瞭だ。

著者はこう言っている。

協働は万能の解決策ではない。それは無数のやり方で同時進行するプロセス、多様化した民主主義である。問題点も成功の見込みもそれぞれの現場によって違う。協働は私たちがすでに持っている能力を、共通の問題を解決するために組み直すところから始まる。

先の事例のような目立った形の協働組合と違って、もっと目立たない形での協働組合の成功例がある、という。ワシントンD.C.の共同体購買同盟やナマステ・ソーラーがそれにあたる。

著者は最後に協働組合の新旧交流が不十分だと指摘する。「過去のモデルの多様性と創意工夫を知れば、今必要な組み合わせを見つけやすくなる」。政治的にも分断を超えて大きな枠組みで考えないと広がらないのではないか、とも言う。

資本主義が所有者である株主への還元に躍起になり、人類共通の課題解決に向けて現実的な解決策を見いだせない中、この古くて新しい協働組合を模索する新しい事業者は増えている。協働組合を作ることが目的ではないことは自明だが、協同組合の新旧経験値を積み重ねれば新しいブレイクスルーが起きることを期待させる。

日本でも「労働者協同組合法」(ワーカーズ法、労協法)が昨年の12月4日に国会で全会一致で可決、成立し、「協同労働」のための法人格を得られることになった。11日に公布され、2年以内に施行される、とされ、早ければ2022年4月には施行されそうだ。(参考:ダイアモンドオンライン「労働+経営+出資」のワーカーズ法はNPOに勝る選択肢になるのか)元々公明党が音頭を取って推進、今や全政党が賛成で、「働き方改革や地方創生など昨今の新しい政策の波が後押し」し、「コロナ禍での失業者の転職先として、地域活性事業の受け皿」になることも想定されている。

NPO法人が20分野に限定され、出資が認められず、寄付金や運営者個人の貸付金でまかなっている現状がこのワーカーズ法で打破できる。今後協働組合に移行するNPO法人が試行錯誤を積み重ねて、労働+経営+出資が三位一体となって新しい「身銭を切った」雇用を生むことを期待したい。

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