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私を構成する70年代のレコード...から10枚をひとつかみ

仲の良い音楽仲間とのオンライン飲み会でのテーマ設定第三弾は、「私を構成する70年代のレコード」(ちなみに第一弾は無人島レコードで第二弾は奇盤・珍盤・迷盤でした)。

1962年生まれの私にとって70年代の音楽は最も多感な時代のものであり、自由に使えるお金がまだ少ない中、2,500円ぐらいする一枚のLPレコードを購入するのに悩みに悩んで神戸三宮のレコード店AOIまで通っていた時代のものなので思い入れは他の年代と比較にならないぐらい強いものがある。

また70年代のレコードはポピュラー音楽史上から見ても名盤が多く、同時代では無いが、その後の人生で遡って聴くようになり、「自分を構成する」、と言ってもよいぐらい今の音楽嗜好に影響を及ぼすようになったレコードもある。

したがって10枚に厳選するのはあまりにも困難で、途中からさっさと10枚縛りは諦めて無制限にリスト入りさせていき、結果的に現時点でトータル177枚にまで膨れ上がった

とはいえこのnoteで、ダラダラとその177枚にまで膨れ上がったリストを思い入れタップリに掲載しても喜んでくれる人はいないだろうから、ここでは同時代で特に思い入れが大きいレコード10枚を選んでそのエピソードをまとめてみた。

1. Niagara Moon/大瀧詠一(1975年5月)

音楽に興味を持つようになったのは当然の如くGS/歌謡曲からだったが、二年学年が上の姉の影響もあり、小学校の高学年頃からABCヤングリクエストなどのラジオのヒットチャートで洋楽やフォーク・ニューミュージックを聴くようになり、次いで姉が中学生になって買い始めた音楽雑誌、例えばGutsやライトミュージックを読むようになった。そういえばDavid Bowieが1973年頃に来日して、山本寛斎の「出火吐暴威」と漢字で書いた衣装を着ていたのをどちらかの雑誌で見たのを記憶している(註:ちょうどアラジンセインツアーの頃らしい)。

そういった中、日本では荒井由実が1973年に「ひこうき雲」でデビュー、翌年には「MISSLIM」を発表、そのバックを務めるミュージシャンがキャラメルママやティンパンアレーとして色々なアーティストのバックとして活躍していることを知る。次いでその中心メンバーだった細野晴臣や鈴木茂がはっぴいえんどのメンバーであることを学び、さらにその内の一人大瀧詠一が1975年5月に本アルバムを発表するという。

順番はわからないが、この頃ティンパン絡みのアルバムがドッと発売されたので、姉との協議の結果、後述する”Band Wagon”(1975年3月発表)を姉が買い、私がこの”Niagara Moon”を買うことで決まったような記憶がある。

湯浅学の「日本ロック&ポップス名鑑」によると同じ75年に発表されたレコードには小坂忠「ほうろう」、シュガーベイブ「ソングス」、荒井由実「コバルトアワー」、細野晴臣「トロピカルダンディー」、久保田麻琴と夕焼け楽団「ハワイアン・チャンプルー」、西岡恭蔵「ろっかばいまいべいびい」といったティンパン周辺の名盤が集中している。そのほかにも憂歌団のファースト、クリエイションのファースト、カルメンマキ&OZのファースト、上田正樹とSouth to Southの「この熱い魂を伝えたいんや」、サンハウス「有頂天」もこの年に発表されている。これだけリリースが集中していることを考えると、75年は歌謡曲とは異なるビジネスとしての日本のポップ・ロックシーンにとって大きな変化があった年と言ってもよいだろう。

姉が購入した”Band Wagon”の方は米国録音でバックも米国のミュージシャンが中心だったが、私が購入した”Niagara Moon”はその鈴木茂を含む国内屈指のミュージシャンが勢ぞろいしている。しかも何しろ大瀧詠一なので、その音楽性は奥が深く、しかも耳慣れた三ツ矢サイダーのCM曲を収録「論寒牛男」、「三文ソング」、「福生ストラット」や「ロックンロールマーチ」、「ハンドクラッピングルンバ」などの歌詞は遊びこころが溢れており、大瀧詠一自らの解説文を含めてすべてが楽しいレコードだった。

今でも手元にあるのはナイアガラレコードとして発表したエレックの初回盤で、その後発売30周年の時にCDも購入した。CDでも同様の企画盤があるようだが、Spotifyでは”Roots of 大瀧詠一's Niagara Moon"というPlaylistも聴くことができる。

後にThe MetersやThe Neville Brothersといったニューオリンズファンクの音楽を聴くようになって初めてNiagara Moonのセカンドラインリズムとニューオリンズ音楽との関連性を理解、改めてこのアルバムとの出会いが自分の音楽嗜好に良い影響を与えてくれたことに心から感謝することになった。

「福生ストラット」はウルフルズがナイアガラファミリーの伊藤銀次プロデュースで「大阪ストラット」として愛情溢れるトリビュート曲を切れ味鋭いリズムで発表している。

2. Silver Star Best of Kenji Endo(1975年2月)

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先の”Niagara Moon”が先だったのか、こちらの”Silver Star Best of Kenji Endo"が先だったのか、とにかくこの二枚のどちらかが私が自分のお小遣いで買った初めてのLPレコードだったのだが、今調べると発売時期が1975年2月とあるので、それから推定するとこちらを先に買ったのかもしれない。

どうしてこのレコードを買うようになったのかというと、こちらも「はっぴいえんど」の面々がバックを務めていたからだと思う。もちろんその前に71年の吉田拓郎の「結婚しようよ」やGAROの「学生街の喫茶店」、72年の古井戸の「さなえちゃん」、井上陽水の「傘がない」、73年の南こうせつとかぐや姫の「神田川」などのフォークブームで創刊された先のGutsやライトミュージックといった雑誌の影響もあったと思う。この当時はまだ遠藤賢司はフォーク畑の人と言う捉え方をされていたのだ。

フォーク畑の人にも関わらず四畳半の枠を超えた音楽を提供することに興味を持ったため、当初はB面の派手な「歓喜の歌」や「踊ろよベイビー」などを気に入っていたが、後にはA面の地味目な「カレーライス」「満足できるかな」が好きになっていった。このベストアルバムには収録されていないが、数年前「寝図美よこれが太平洋だ」がたまらなく好きになったことがある。初期の発掘ライブを聴くとドアーズの影響を感じられるし、アコギとエレキ両刀使いのニールヤングは当然大好きだったのだと思う。

その後遠藤賢司は四人囃子の佐久間正英や佐藤ミツルをフィーチャーして「東京ワッショイ」を出し、その後もチャレンジ精神旺盛に音楽ジャンルの枠を超えた音楽活動を見せ続けていたが、やはり私にとっての遠藤賢司はこのSiver Starだった。

今年の1月には2020年1月15日(水)渋谷クラブクアトロで遠藤賢司生誕73周年イヴェント『お~いえんけん!ちゃんとやってるよ! 2020 』というイベントが開催された。サニーデイ・サービス、カーネーション、岸田繁(くるり)の3組が一同に会し、故・遠藤賢司の生誕を祝い当時の曲を演奏している。

3. この世を悲しむ風来坊に告ぐ/ザ・ディランⅡ(1974年9月)

1974年9月に発表されたザ・ディランⅡの4枚目のアルバムで、これは私自身が買ったのでは無くて、姉が買ったものだった。もしかすると姉が最初に買ったLPレコードはこれだったのかもしれない。姉はどうしてか音楽発掘に関しては特異な嗅覚を発揮するところがあった。LPレコードは今も姉のところにあるので、私はその後米国在住時に発売されたザ・ディランⅡの全アルバムを収録したボックスセットをCDで購入した。

ティンパンアレーやキャラメルママといった「はっぴいえんど」人脈の流れと前後して、関西ではブルースロックブームがあった。75年にはウエストロードブルースバンドがデビュー、75年の8・8ロックデーでは後にソー・バッド・レビューに進展する山岸潤史ブルースバンドなどが活躍する。ソー・バッド・レビューは2014年のFuji Rock Festivalで38年振りに再結成ライブを敢行している。

その山岸のバンドやソー・バッド・レビューにも参加した石田長生が前作の「オリジナル・ザ・ディラン」に続いて深く関わったのがこの「この世を悲しむ風来坊に告ぐ」である。バックには、後に鈴木茂のハックルバックに加わる田中章宏、ウエストロードブルースバンドの塩次伸二が参加している。

今聴いても大塚まさじのボーカルは本当に味があって上手く、初期のメンバーだった故西岡恭蔵の曲「僕の女王様」や細野晴臣「恋は桃色」、休みの国「追放の歌」などのカバーでも独特の世界観を表現する。これらの歌詞の世界が当時私の空想の世界をかけめぐっていった。バックのメンバーもザ・バンドばりの音世界を構築、今でも年に何回か聴くことがあるまさに私を構成する一枚だ。

4. 續 脱・どん底/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(1975年2月)

こちらはご存じ「スモーキング・ブギ」や「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を収録する75年2月に発売されたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの二枚目のアルバム。これは後にCDで購入したが、LP時代は親友のS君が買ったものを借りて何度も聴いたものだ。

後の宇崎竜童の作曲家としての活躍から、本バンドでの活動も歌謡曲の世界のように思われるかもしれないが、当初彼らはルックスから解散したキャロルの二番煎じのようにとらえられていた。楽曲は後の作曲家としての宇崎竜童の活躍からもわかる通り、キャロルに比べると音楽性の幅が広く歌謡曲や演歌の下地も見え隠れする。米軍キャンプ周りで培った演奏力は相当高く、またアレンジもオールマンブラザーズバンドやジェフベックグループなど今では許されないであろう洋楽の丸コピーがたくさんあった。

演奏面では特にこのバンドの和田静男がギター演奏の面で私の世代に及ぼした影響は計り知れないものがある、と思っていて、実際ほぼ同世代の奥田民生はGuitar Magazineの2020年7月号「日本の偉大なギター名鑑」でベストの一枚としてDTBWBの「Very Best of Rock & Ballad」を挙げ、「ギタープレイを和田さんから学びました。今でもフレーズとかは、まんまです。」と吐露している。YouTubeで和田静男が一人で奏でるギターの様子が見られるので是非見て欲しい

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドには後にロッキン・オンが深く関わった松村雄策がボーカルを務めたバンド「イターナウ」でピアノを弾いていた千野秀一がメンバーとして参加した。今はベルリン在住らしい。

5. Band Wagon/鈴木茂(1975年3月)

90年代にクラブシーンで重宝され、今や70年代の日本のロックのランキングで必ず上位に掲載される本アルバム。先のGuitar Magazine「日本の偉大なギター名鑑」を見ると高田漣は「日本どころか世界でも1,2を争うギター名盤だと思います。グルーヴィーなカッティングと歌心溢れるスライド・ギター。どこを切りとっても神がかった名盤です!」と崇拝している様子がわかる。

当初Bill Withersで有名なドラマーのJames Gadsonやモータウンで有名なベーシストのJames Jamersonをブッキングしようとしていた鈴木茂だったが、現地のコーディネーターの手違いから彼らが集まらず、急遽呼び寄せたのがCarlos Santanaのバンドに参加したDoug RauchやTower of PowerのDavid Garibaldi、Sly & Family StoneのGreg Errico、Little FeatのBill Payneらで、当時としては大変豪華なメンバーでのセッションとなった。

スライドギターについてはLittle FeatのLowell Georgeの影響が大きいが、さらにそれを洗練されたものにしている。全曲作詞は松本隆で、鈴木茂の自伝によるとLAの鈴木茂に電話で伝えた歌詞もあったらしい。

「微熱少年」は当時松本隆の書籍が発売されていて我が家にもあった。「風街」と並んで松本隆の初期の語彙として秀逸だと思う。このアルバム収録の曲はどれも素晴らしいが、一曲選ぶとすれば歌詞に「ショーケン」の登場する「100ワットの恋人」になる。

最近鈴木茂が再現ライブをすることも多く二度見に行ったが、やはりメンバーも違うし、ハックルバックの再現にはなっても当時のLPの海外ミュージシャンによる雰囲気を再現するのは難しいように思う。鈴木茂はRollyとのハロイン・ライブや大瀧詠一の楽曲を歌うライブなどコロナ禍でも音楽活動に積極的で、引き続きファンとして応援していきたいと思う。

6. Paris/Paris(1976年)

中学1年から2年頃に日本のロックやニューミュージック、フォークから音楽にはまったが、その後1-2年で姉が洋楽志向を深めていくのに比例して、すっかり洋楽の世界に浸っていった。その志向の変化に符合するように、アコースティックギターを買ったのが中学2年でエレキを買ったのは中学3年だったと思う。

雑誌購読にも変化があって、姉が当時編集部に行ったこともあるロッキンオンは1973年の創刊4号から1998年頃まで25年ほど購読した。今でもこの頃のロッキンオンは我が家の物置にある。

編集長だった渋谷陽一はNHKのAM・FMで番組を持っていて、他の番組では取り上げないような音楽を紹介していた。既に音楽誌として成功を収めていた「ミュージックライフ」や「ニュー・ミュージック・マガジン」への対抗意識もむき出しで、中村とうようとの公開討論とか今野雄二批判とかをやっていた記憶がある。

渋谷陽一の生き残りのための差別化の意味もあるのか、ロッキンオンでは他の音楽誌があまり肩入れしないバンドをプッシュする傾向があって、初期は英国のMr. Bigというバンド(註:後の米バンドとは別。B面一曲目のZambiaを特にプッシュ。)、その次にこのParisを強力にプッシュしていた。

Parisはバンド名と同様にファッショナブルなコスチュームでLed Zeppelinばりの硬質なロックを演奏するバンドで、特に1976年に発売されたこのファーストアルバムは演奏もタイトで曲もキャッチーだった。リーダーは元フリードウッドマックのRobert Welchで、彼は後にBob Welchの名前でParisでの音楽をより大衆化することで大ヒットした。

Parisは他のメディアが全く取り上げなかったので情報も限定的で、よくあれだけ情報が無い中ロッキンオンで何度も取り上げられたものだと思う。

ロッキンオンには渋谷陽一以外にも松村雄策や岩谷宏といったメインライターがいて、当時は特に岩谷宏の書く文章の影響を受けた。そのロッキンオンで、実家も近所で高校時代にバンドをやったこともある一学年下の山崎洋一郎が渋谷陽一の右腕として活躍しているのは大変興味深い。

7. Viva! Roxy Music/Roxy Music(1976年)

ロッキンオンという雑誌はかなり偏った音楽嗜好が基本となった雑誌だった。米国西海岸の音楽が取り上げられることはほぼ皆無で、もちろんQueen、Aerosmithといった日本で人気のあったバンドは連載していたロック漫画などで取り上げたし、先のParisの後にはCheap Trickが”Live at Budokan”でブレイクするまで渋谷陽一が孤軍奮闘してプッシュしていた。さらに英語の翻訳もやった岩谷宏の音楽嗜好の影響があり、初期は次に挙げるKing Crimsonと並んでRoxy MusicやBryan Ferry、David Bowieを取り上げることが多かった

最初に聴いたのはRoxy Musicの75年作”Siren"で、その後遡って72年作のファーストアルバム、73年作”For Your Pleasure"やBryan Ferryのソロ76年作”Let's Stick Together"や”Tokyo Joe"を収録する77年作”In Your Mind"などを同時代的に聴いた。ルックスがお洒落なBryan Ferryだが、その独特の中性的なボーカルが癖になり、またプロデュースセンスがある人で、"Let's Stick Together"ではバックメンバーとして元King CrimsonのJohn WettonやルックスがこれまたカッコよかったChris Speddingが参加していたこともあり、当時来日したライブを観に行った記憶がある。

そういったアルバムから一枚選べ、と言われると元King CrimsonのEddie JobsonとJohn Wettonが参加したこのライブアルバムになる。73-75年のライブを76年にまとめて発表したもので選曲も当時のRoxy Musicのベストに近い。

Roxy Musicはこの頃は英国以外ではそれほど売れていなかったが、後に再結成後の”Avalon"が大ヒット。ソフィアコッポラ監督の映画”Lost in Translation"でもビル・マーレーがカラオケで歌っていた。

そういえばRoxy Music絡みでいうとRoxy Musicが一旦解散した後にBrian EnoとPhil Manzaneraがプロジェクトとして始めた”801”も忘れられない。当時は結構評判だったのに最近はあまりこのアルバムがメディアで取り上げられないのは残念だ。

8. Red/King Crimson(1974年9月)

ロッキンオンの岩谷宏の影響でKing Crimsonを遡って聴くようになった。岩谷宏独特の超訳やRobert Frippの架空インタビューといった今では訴訟モノの記事を読みながらKing Crimsonの演奏を聴くと、悶々とした現実社会から随分とかけ離れた気分になれたのだと思う。

手元にあるKing CrimsonのLPは”クリムゾンキングの宮殿”、”アースバンド”、”暗黒の世界”、”USA"。今もApple MusicではKing Crimsonは楽曲を聴くことができないためCDでボックスセットを数セット持っている。その中ではやはりJohn Wetton在籍時の第二期クリムゾンが一番好きで、特にこの1974年9月発売Redの表ジャケットの写真と裏ジャケットのピークメーター、そしてRobert Frippの切れ味鋭いギター音とエモーショナルなJohn Wettonのボーカルは印象深い。

King Crimsonは最近の来日時には必ずライブを観に行っていて、ドラムを三人前面に出して迫力ある演奏を聴かせている。メルコリンズが復帰していて、このアルバムでの曲でも素晴らしい演奏を見せている。観客もまるでクラシックのコンサートでも聴くような佇まいで、彼らのライブはロック音楽としての完成度という点では他の追従を許さないぐらいのレベルに磨き挙がっているように思う。

コロナ禍になってRobert Frippは奥様のToyahと一緒に夫婦漫談のようなYouTubeを延々とやっているが、先の架空インタビューの影響かもしれないが、当時のRobert Frippのヒリヒリとした印象とは異なるもので何やら微笑ましい。

9. 電撃的東京/近田春夫&ハルヲフォン(1978年)

確かこれもロッキンオンでのレビューを参考に購入したものだったと思うが、1978年に発売された全曲歌謡曲カバーで構成された近田春夫&ハルヲフォンの三枚目のLP。

私は14歳ぐらいからギターを弾き始め、15歳でエレキギターを始めていた。最初に演奏したのは当時流行っていたBad Company、Led Zeppelin、Deep Purpleで、その後Aerosmithの初来日ライブを観て彼らにはまり、次にPunk Rockが流行するとSex PistolsやDead Boysなどを演奏した。

高校生最後の年はそういったPunk Rockの影響が一段落した頃で、Rolling StonesやTom Robinson Bandと並んで、この「電撃的東京」から「東京物語」(原曲 森進一)、「ブルドック」(原曲 フォーリーブス)、「真夜中のエンジェルベイビー」(原曲 平山みき)、「情熱の砂漠」(原曲 ザ・ピーナッツ)を演奏した。「電撃的東京」のライナーノーツは確か渋谷陽一によるものだったと思う。渋谷陽一は以前から平山みきを最も好きな歌い手だと言っていて、このアルバムにも彼女の「真夜中のエンジェルベイビー」が取り上げていたことを喜んでいた。バンドでは演奏しなかったが「気になるお前」は沢田研二のシングル「胸いっぱいの愛」のB面曲でこういった渋い選曲が当時たまらなく嬉しかった。

ハルヲフォンのギターを担当する小林克己はGS出身者だがこのアルバムでも様々なギタースタイルを駆使するギター名人で、当時レコードと添付されたタブ譜による東宝レコード・ギター・テクニック・シリーズという教則レコード「小林克己バンド / アメリカン・ギター・テクニック American Guitar Technique、パート1 ハード」に収録されたAerosmithの”Train Kept a Rollin'"から同曲のギターソロを学んでバンドでも演奏した。今でもこのギターソロは私の一番のお気に入りだ。

このバンドは大変演奏が上手いが、元々ディスコのハコバンだったらしく、コピー演奏が素晴らしい。それがこのアルバムに結実したのだと思う。最近発掘Live盤が発売されており、そこでは四人囃子などの日本のRockメドレーを演奏している。近田春夫のMCが当時から饒舌だ。

後にロッキンオンの松村雄策のファーストアルバムでプロデューサーだった渋谷陽一が小林克己をミュージックダイレクターとして選んだ。同アルバムのプロモーションライブでも小林克己が参加していて、大阪でのライブを観に行ったことがあるが、明らかにミスマッチだったのは残念だ。ギター名人だった小林だったが、音楽フォーマットはロックでは無くて歌謡曲だったのだ。先の「イターナウ」を愛聴していた私にとって歌謡曲版「あなたに沈みたい」をアンコールを含めて二度聴くのは悲しかった。「あなたに沈みたい」は「イターナウ」時代のものも良いが、引退前の頃のアレンジも最もロック的で好きだった。

10. Outlandos d’Amour/The Police(1978年11月)

高校最後の年は、パンクロックがニューウエーブに変わる頃だった。その中で、特に演奏力の面で秀でていたのがThe Policeで、この78年11月のアルバムは確か姉がハワイに遊びに行った際に買ってきたような記憶がある。

このアルバムも大変よく聴いたが、それに加えてラジオでエアチェック(ほとんど死語?)したニューヨークのBottom Lineでのライブを何度も聴いたのを覚えている。LPでのシンプルの演奏をライブでは拡張して演奏していたのが印象的だった。特に”Next to You"の前にメドレーで演奏される”Landlord"という未発表曲のスピード溢れる演奏が好きだった(冒頭の1979年4月4日YouTubeの46:50から)

The Policeは二枚目からパンクらしさが失われていき、「高校教師」辺りから誰でも知っているバンドになって、次第に熱心には聴かなくなった。元々Jazz系のラストエグジットというバンドにいたStingに、元カーヴドエアのドラマー、元アニマルズのギター、とパンクとは無縁の彼らがたまたまムーブメントの波を利用してメインストリームに躍り出たに過ぎないので、彼らにパンクらしさを求めるのはお門違いなのだろう。それでも当時の私にとってはファーストアルバムのスティングの髪型が全てだった。さらに1979年の映画「さらば青春の光」にモッズのリーダー役で出演したスティングは本当にカッコよいと思った。

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今回選んだ10枚は思い入れのあるアルバムだが、当然他にもシングル曲や歴史を遡って好きになったアルバムなどがあり、結果177アルバムも選んでしまった。70年代以外にも10年置きに同様の選択をしてみたが、これほどの枚数を選ぶことは無い。それほど70年代は自分にとって音楽との密度の濃い関係があった特別な時代であったことを改めて認識した。

10枚のアルバムの内、74年が二枚、75年が四枚、76年が二枚、78年が二枚と77年と79年のものは一枚も選ばれていない。79年は個人的には大学受験のための浪人であまり熱心に音楽を聴かなかったのでやむをえないが、77年はちょうどSex Pistols、DamnedやClash、Talking HeadsやTelevisionがデビューしたパンク・ニューウエーブ黎明期だった。私自身もそのシーンにドップリはまったし、今でもエキサイティングな時代だったと思うが、すぐにニューウエーブに移ったこともあって、パンクの時代はあっという間に終わってしまったような気がする。パンク出身の彼らも音楽的に成熟していったのは少し後になる。

Apple Musicで私を構成する177アルバムの一部をPlaylistにしたのでご興味のある方は見てみて欲しい。



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