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ブックレビュー「虫とゴリラ」

解剖学者で昆虫採集を趣味とする養老孟司と霊長類学者・人類学者で京都大学の総長、ゴリラ研究の世界的権威の山極寿一の対談本

全く違う研究を極めた二人が、それぞれの意見をぶつけ合い、くっついたり離れたりシンクロする。

異なる研究を極めた二人が、昆虫とゴリラの切り口で人間の不思議と問題点を指摘し、情報化社会と日本人の将来を憂う。キーワードは、「共鳴」、「自然観」、「意識されないもの」、「感覚」、「個人個人が違うもの」。

共鳴する世界

養老氏は人間のような複雑な生物だけに意識が発生したという説よりも、シンプルな細胞にすら意識のもとがある、と主張し、山極氏も、人間の体にとりついた微生物は何らかの形で人間の細胞とコミュニケーションをとり共鳴している、と同調する。「なんだかわからないけれども、自然と通じることができる」。

私たちが失ったもの

山にしても川にしても海岸線にしても高度成長時代の日本は自然を破壊し、生態系を潰した。それを今復元しようとするが、何も知らない人間や役所はフナがいない川にフナを流したり、最近はTV番組で外来種を目の敵にして駆除するなどの勘違いに終始する。外来種すべてが生態系を潰す訳でも無いのに。

山極氏は哲学者のオギュスタン・ベルクとの対話で日本人の情緒、特に自然観は「主体」と「客体」の関係が曖昧で、絵巻物にしろ日本の庭園に主体が客体の中に没入する点があることを指摘された、と言う。西洋人は主体、すなわち自分のアイデンティを固定して見る。代表的なものが遠近法だ。その独特の自然観が、70年代の自然の崩壊で失われてしまったと指摘する。

山極氏は「型」を大切にする日本人は、型の中では想像力を発揮するが、型の外に出ると傍観者になってしまう、日本列島改造論を型と誤解した日本人は「何かおかしいぞ」と気づきながら傍観者になってしまった、と指摘する。養老氏は型は身体の一部であり、型を身に付けるのは恰好だけではダメだ、と指摘する。山極氏は日本人が明治以降西洋の形だけを真似て和魂洋才といって和魂を残してきたにも関わらず、戦後和魂を失い空っぽになったのだ、と言う。養老氏はその和魂は精神的なものでは無く、「世間の暗黙のルール」であり、それが壊れた、と指摘する。

コミュニケーション

山極氏は、人間は言葉を持つことで、直接自然と一対一の対応をせずに暮らし始めた結果、自然との「会話」が出来なくなった、という。言葉を使う、というのは「分類する」ということ、すなわち本来「違う」ものを「同じ」カテゴリーに入れることだ。

養老氏は、「違い」は本来感覚で知るものだが、人間は五感を使わなくなったことで違いを排除しようとしている、特に西洋人は「乱暴に」感覚を論理や概念に置き換えようとしている、という。

山極氏は、次に人間の脳は大きすぎて余計なことをいっぱいしている、という。例えばプラトニックラブは生物としては無駄。また人間は触覚を忌避している、と指摘する。養老氏は、人間は触覚の「直接性」が嫌いなのだろう、と応える。

山極氏は、ゴリラの集団が常にお互いに体のどこかで「接触」しているのに対して、人間は大人になると「脳でつながる」ことが当たり前になり、今や子供ですらスマホが手放せなくなっている、と指摘する。ゴリラは一週間集団から離れるともとに戻れない、が人間は今では言葉ですらなく、SNSでシンボルを送るだけでつながっているという感覚が得られるようになっている、そして離れていると相手に対していろいろな操作が可能になる、という。

ビッグデータ

山極氏は元々フィールドワーカーなので「情報化」を求められてきた。「情報化」というのは個別の体験をいかに共有できる形にするか、であった。それが今は情報が溢れ、情報によって生かされている時代を迎えつつある、という。養老氏も、今は既成の情報を運転すれば良い、その下請けをコンピューターにやらるのがビッグデータであり、情報がどうやって集められたかに無意識になり、いつの間にか結論が出ている時代になった、という。

山極氏は、ハラリが「サピエンス全史」の中で、人間は「知らないことを知った」ことで知識への渇望の出発点となった、というが、そうでは無くて、未知の場所にはいいことがあるのではないか、という好奇心が芽生えたことが新しい土地への旅立ちになった、と主張する。さらに、保守的なゴリラやチンパンジーと異なり、人間だけが採取した食料を別の場所に運んで、他人が採取したものを食べる、すなわち他人を信用するようになったことが情報化社会の始まりだと言う。

養老氏は、人は動物と異なり相手と自分を「同じ」とみなすことができ、その結果言葉が生まれた、という。山極氏はこれに対して動物も同じ価値を「共有する」ことはあるが、人間は「言葉」を使うことで、さらに違うものまでも等価交換するまでになった点が大きな進化だ、とする。人間は脳が大きいから頭がいいのでは無く、言葉ができるまではすべて頭の中に収めていたから大きくなったのだ、という。

養老氏は、「自分」と「相手」が交換できるようになったことで、「自分が相手だったら」と想像するようになった、という。山極氏は、ゴリラやチンパンジーの行動は時間的に発生しておらず、したがって「因果関係」が無いが、人間には言葉が生まれてくることで再起性(フィードバック)が生まれ、社会が均質化し、因果関係が共有され、その結果皆が同じことを繰り返さなくなり、知識が蓄積されるようになった、という。

森の教室

最近の子どもは自然と関わらなくなったため、つき合い方がわからない、つまり自分でコントロールできるものばかりとつきあうため、「共鳴」が生まれない、という。自然との関わりは、予想できない動き方をするものに対して、呼応できる身体をつくる重要なトレーニングになる。自然の中に自分の身体をおいて、自分をとこ込ませていく、そういう覚え方は、課外授業や図鑑で学ぶものとは格段に違う。

その点AIが分析してしまうと、心地の良いものばかりをつくる可能性がある。人間同士のやり取りにはムカッとしたり、嫌悪感をもよおしたりするものが混じっているのにもかかわらず。「データどおりにふるまえばいい。自分は決して傷つかない。だから、緊張感も覚えない。ぜったい最後にはうまくいくはずだっていう、その考えでつき合ってしまう。」「うまくいかなくても(マニュアル通りやっているのだから)「俺のせいじゃない」」となってしまう。学習の基本は自習と対話であり、今は即効性のある成果を出そう、とするあまりに時間のかかる成果を犠牲にしている。

今西錦司は、自然科学でなく、自然学を学びたいといっていたそうだ。つまり自然の科学的な分析ではなく、自然の全体を見ることを重視していた。コンピュータは自然から何かを拾ってくることは無い。ビッグデータは「数」として拾っているだけ。自然学では「意識されないもの」が重要だ、と言うわけだ。

生き物のかたち

人間はわからないものを「無視」し始めた。人間がわからないものも、わららなくても合意しなくたはならないのものあるのに。虫には「意味が無い変化」としか考えられないものがある。

養老氏はウンカの幼虫の脚の付け根の関節が「歯車」の形になっている、ピアノ、鍵盤が全部等距離に並ぶ配置が一次聴覚中枢の「神経細胞の並び方」だ、と指摘する。このように人間が頭で考えていると思ったものが、実は自然界にあったものだ、という例があるのだ。それを「脳みそ自体が外へ出ている」と表現している。

山極氏は、人間が言葉を持ってから記憶を外部化し、その結果脳容量が縮小している、と指摘する。養老氏はこれを「間引き」ととらえ、感覚依存が強いと、脳みそが退化しない、という。山極氏は、文字による抽象化で、それが絵文字のようにビジュアルになり、信号が単純になるがインプリケーションが拡大し、その結果誤解が多くなり、フェイクが流行る、という。信頼をつくる道具としてのコミュニケーションが信頼を壊したり、人を操作するための道具になっている

養老氏は、日本は明治維新と戦後の二度、価値の大変換が起こり、人間が信頼できなくなり、その結果自然科学、すなわち「モノ」に走ったのだ、という。先の和魂洋才の「才」はこの「モノ」だと。

日本人の情緒

養老氏は、和魂が失われた責任を民法改正による家族制度の破壊が原因だと言う。横浜市の高齢者の単身見守り世帯が全体の4割を占めるらしい。山極氏はこれに加えて経済優先の都市計画、コンクリート建築・プレハブ建築に責任がある、と指摘する。

建築家の隅研吾は21世紀の日本は再び木造建築の時代になる、という。コンクリートは丈夫だと思われたが100年も持たないが、木造建築は清水寺のように何百年も持つ。コンクリート建築は作った時が「終わり」で、木造建築は作った時が「始まり」で世代を超えて継承できる、という。

またコンクリート建築が外との間を塞ぎ、引きこもるのに対して、日本家屋には「縁側」という外と内の「結界」、「間」がある、という。

また世代によって明かりをつけたり、消したりする習慣の違いを指摘する。40代ぐらいになると明らかに明かりを点けておく、という。明かりが無いと聴覚は研ぎ澄まされ集中力が増す。

「縁側」はさらに、西田哲学の”「と」の論理”、二者択一では無く、両方肯定する考え方にもつながる。これは西洋には「私」しかない、「私」からの主体性しか無いのとは大きく異なる。「と」を入れることで向こう側に主体を移したり、自分に主体を取り込むこともできる。これは先の「主体」と「客体」が曖昧という感覚につながる。

山極氏は情報化により情報が断片化し、情報の使われ方だけが経験値になりそこから「期待値」が出るようになると、個人が他の個人から切り離された状態を指すヒューマニズムが失われる、と危惧する。あらゆる情報をプール化して、分析することで、個人がこれから起こすこと、起こす可能性があることが瞬時に予測されるようになる。この際の情報は「本人」そのものでは無く、「本人の断片」でしかないにも関わらず。もしろ本当の「本人」はノイズになってしまう。このため養老氏は今の社会では「現物は違う」と絶えず異議申し立てをする必要がある、という。

日本の未来像

山極氏は、未来社会で人がやることがなくなると、人びとのやることを創らなければいけない時代が来る、その際に良い政府がいればベーシック・インカムで皆が生きる権利を持つ時代が来る、という。その際に人間は工業化~グローバル化=均一化の社会に生きながらも、それぞれ違うものをつくり、個人個人が違うものになっていくというプロセスを経て、新しい人間の生活とコミュニティをつくっていかなければならない、という。「幸福を作るには手間暇をかけた方がいい」。

この本を読んで

情報化社会では、エビデンスベースで統計を駆使して分析して将来を予測する、という科学的手法が重視されている。私が専門性を持つHRの世界でも同様だ。これはそれまで第六感で判断していた時代に、よりファクトを重視するという意味では良い面がたくさんあると思う。

しかし情報はあくまでも断片的で、情報の使われ方だけが経験値となり、本人そのものではない。情報と情報の「間」については無視される。虫とゴリラの専門家である二人は、人間が言葉のコミュニケーションを始めたことで「意識されないもの」、「わからないもの」を軽視し、情報化によりさらにヒューマニズム、すなわち個人が他人と切り離された状態、が失われていることを危惧する。このためわれわれは再び自然と触れ合い、通じ、共鳴することで感覚を研ぎ澄ませ、脳の間引きを防ぎ、均一化した社会で自らを「違うもの」である、と主張し続けるように提唱する。

幸いにも日本には伝統的に、西洋的な二者択一では無い、「間」を重視し、主体と客体を行き来するセンスを持ち合わせている(あるいはいた)。もちろん単に昔を懐かしむのでは無く、現代工業社会・情報社会でいかにこのセンスを再び手にして、個人が異なることが尊重される社会を作っていくことが「幸福」につながる、ものと考えたい。

これはまさにインクルージョン&ダイバーシティではないか。

個人的には自分が子育てする中で、子供たちに自然と触れ合う機会を十分与えてあげられなかったことを反省するが、一方今91歳の父親に後を追うように援農ボランティアで土に触れあう方向に向かっているのは、自然と共鳴する感覚を磨く良い機会になるのではないかと期待する。

そういえば、私が没頭しているスキーでも、先日ホームゲレンデである富士見パノラマスキー場のパノラマスノーアカデミーの日帰りドックで、講師からもっと足裏の意識を持つように注意された。これもある意味では、雪面という自然への感覚を研ぎ澄ませる、ということなのだろう。料理するにしろ、ヨガをするにしろ、ストレッチをするにしろ、毎日の生活でももっと「感覚」を意識していきたいと思う。



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