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ブックレビュー「普通という異常 健常発達という病」

本書を知ったのは日経新聞で本年4月13日に「発達障害、多様な実態 広範な濫用には問題も」という記事の中で本書と「発達障害大全」、「みんな水の中」が紹介されていたからだ。

本書は「みんな水の中」と同様に当事者本であり、精神科医の斎藤環氏により「定型発達者も「ニューロティピカル」という病理を持つのではないかと主張する。それは例えば、他者の「いいね」(=まなざし)に束縛されやすい病理であり、それを抜け出すには、身体的な反応と自分自身がほぼ一致するような「デカルト的コギタチオ」の認識が重要であるとされる。」との要約が紹介されていた。

ニューロダイバーシティの文脈で代表的に挙げられるADHD(Attention Deficiency Hyperactive Disorder:注意欠陥・多動性障害)とASD(Autistic Spectrum Disorder:自閉スペクトラム)。

間違ってはいけないのはADHDもASDも肺炎と同じような意味での病気ではなく誰もがいくぶんかはADHD性やASD性を持っているが、それが極端だと生きづらいというたぐいのものだ。

このADHDやASDは「非定型発達」と呼ばれるが、この逆を「定型発達」、少し前までは「健常発達」と呼んでいた。「健常発達」というといかにもその反対は健常ではない、ように思える。しかし「定型発達」の人も病い的になることがある、というのがこの本の出発点だ。

本書の第二章ではアメリカの自閉症協会の有志が挑発的なパロディとして作成した「健常発達症候群」(”Neurotypical”)が紹介されていて、これが面白い。

ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。
・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。
・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。
テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。
・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。
・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。
・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。

そして本書ではこの健常発達的心性の特性として対人希求性にハイライトしている。この対人希求性は周りの人の承認を誰が受けるのかを競い合う競合的な性質を帯びていて、これが「いじコミ」(表では良いことをいい、裏ではジャブを打ち合ういじわるコミュニケーションの略)に必然的につながっていくことを指摘している。そしてこの対人希求性は最近の「いいね」を競い合って集める現象につながっていくわけだ。

ADHDの欠陥説明の一つに報酬系と呼ばれる神経サーキットの機能障害説があって、健常発達の子は勉強をしたら褒める、勉強をしたらおやつをあげる、という躾を何回かすると、その都度褒めたり、おやつをあげたりしなくても勉強するだけでドーパミンが出て、人に言われなくても勉強するようになるが、ADHDの子ではその都度おやつをあげなくてはいけない。

逆に健常発達の子は、もともと直接的な快や不快が、周りの多くの人が良しとする行為や目標への価値づけに置き換えられる。すなわち社会制度的な正しさが自分の実感に置き換えられ、自分が本来は何を求めていたのかが曖昧になってしまうリスクを抱えている、という。

この社会制度的な正しさこそ唯一の選択であるような風潮、合理的忖度的風潮が強まると意外性や面白さが無く、退屈に陥ってしまう。そして忖度を求めすぎる忖度過多症候群は、時に死に至る病気にもなりうる

言い換えれば、健常発達者は、先のニューロティピカル症候群の第4項にあるように、「世間のメジアン(=中央値)とずれないことを絶えず意識して自分のあり方を修正しつづけなければならない存在」といえる。

ところが世間のメジアンは流動的で、すなわち「いいね」は気まぐれのため、いつ恣意的に向こうの都合で止められてしまうかわからない。そして、「いいね」が「私」の存在にかかわるため、耐えがたい不安が引き起こされる

昭和の時代は、「いいね」に左右されない「私」を探しだし、そうした「私」でありたいがために、世間一般に共有されたお手本(例えば「肥った豚よりも痩せたソクラテス」)を求め、揺るぎない本物の「私」を見い出し、それになろうとした。

ところが、このお手本の承認が共有されなくなったため、平成・令和ではともかく途切れなく「いいね」を外部から獲得するようになった。

その結果、常に流行に乗り遅れないためにアンテナを張ることを怠らず、さらに「今、ここで」小集団のなかでの自分の立ち位置を刻々と把握し、絶妙な配分で悪意があからさまな悪意にならないようにして、世間一般の「いいね」に自分の「いいね」が重なり合うようなアクロバティックな動きが要求される。

当然のことこの絶えざる動的平衡状態の維持により「人間であることは疲れること」になってしまう。この健常発達の人が追い詰められた時の突破口として、「デカルト的コギタチオ」(例えば「きゅうりは嫌だ」のように、実感に忠実に、あるいは反射的にそれに基づいて行動してしまう意識)、すなわちADHD的なポテンシャルを最大限に引き出すことで、ノマド的な選択肢は自分たちを救う処方箋となるのだ、と著者は指摘している。

少々難解な論考に見えるが、発達障害に見られる「実感に忠実で反射的な行動を、社会制度的な正しさで置き換えることができる健常発達者ではあるが、社会制度的な正しさが昭和の時代のように単純ではなくなった平成・令和の時代においては、自分の立ち位置を小集団の中で刻々と修正するというアクロバティックな動きが要求されるため、何かのキッカケで追い詰められてしまうことがあるその際の処方箋となるのが健常者にも存在するADHD的なポテンシャル、「実感に忠実で反射的な行動」だということを言っている。

健常発達者はとかく発達障害者を「あちらの人」と思いがちだが、実は地続きであり、健常者ならではの厳しい環境に耐えられなくなった際には、ADHD的なポテンシャルを発動させていくことが必要だ、というコペルニクス的転回である。



                 


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