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備えあれば、憂いあり

知には3つの枠組みがある。

a : 「私は知っている」エリア

b : 「私は知らないことのあることを知っている」エリア

c : 「私は知らないことのあることすら、知らない」エリア

科学はaの領域を広げようとする営み。

ギターを始めるとしよう。

コードを覚えた。「C弾けた! 嬉しい!」

C → G →Am→(Cの押さえる弦ちょっとずらして)Fmaj7→C→G→F→C

あ。なんとなく『Let It Be』イントロっぽい。やったー! 

オレ、かっけー!

C→(Cから人差し指だけ抜いて)Cmaj7→(Cに小指加えてC7)→F 

『Something』歌い出し、できたー!!

最初はこれだけで嬉しい。でも、弾けるようになるにつれ、「『Get Back』のメロディアスで流れるようなジョンの間奏をコピーしたい!」となる。

つまり、「知っている(できる)ことが増えればふえるほど、知らない(できない)ことが広がる」。

これは図のaの直径が大きくなればなるほど円周も大きくなり、b(知らないこと)の接面が広がるからと論理的にも納得できる。

でね。

ぼくたちはぼくたち自身のオーナー、主人だと思ってる。

だから自分のことは自分が一番わかってる・・・と。

ほんとかな。

毎朝起きて最初にするのは呼吸法。

ベッドに腰掛け、鼻から吸って、丹田に溜め、ゆーーーーーっくり鼻から吐き出す。これ、15年くらいやってる。めっちゃくちゃ健康なのはたぶんこの呼吸法のおかげだと思う。

呼吸しているとき、つい、「今日のタスク」とか「スケジュール」とかが浮かぶ。浮かばないように、呼吸だけに、鼻腔だけに集中しようとするけど、人間、面白いもので、そう考えればかんがえるほど、気が散る。

そう、自分自身すら、コントロールできないのだ。

同じく、社長は会社の主人公で、「すべてわしがコントロールするのだ」と思ってるけど、できない。

人間である限り、

a : 「私は知っている」エリア

の範囲内でしか、考えられないし、動けないから。

だけど、aなんて、ちっぽけだ。

今日は2020年11月11日だ。昨年の今頃、ぼくはベトナム・ダナンへ飛ぶ準備をしていたのだけど、一年後こうしてnote書いてるなんて、まったく予想しなかった。コロナが襲って、価値観ががらりと変わって、日米の首相・大統領が・・・

「死んだらどうなる?」というより大事なのは「死ぬ前まで生きてるわけでその期間どう生きるか」だ。

「備えあれば憂いなし」というよね?

あれ、違う。

わからないのに、どうやって備えるの?

備えるから、憂いが生まれる。

「この大口取引先が消えたら、うちの資金繰り、どうなるんだろう?」

考えるから、実現しちゃうんだよ。

現実というのは、面白いもので、思うことでbとc未知ゾーンをa既知ゾーンへと転換して生まれる。

余命宣告を受けたとする。受けるから、余命が決まる。

「あ。あと半年後に死ぬんだな」違う。

だからもしそうなったら、無視すればいい。

医師はa既知ゾーンの範囲でしか判断できないわけで、b&c未知ゾーンについてはわからないわけだから。しかも他人の身体でしょ? 自分の身体ですら、わからないのに、わかるわけないんだよ。

死ぬときまで生きてるんだから、「あと半年後死ぬ」ではなく「いまこの瞬間を楽しく生きる」ことに集中する。未知ゾーンのほうが大きいんだから、何が起こるかわからないよ。

瞬間に生きよう。瞬間瞬間(moment to moment)を楽しもう。

決して刹那的な生き方を勧めているんじゃないよ。

呼吸法をやってみたら、理解してもらえると思う。

やってみて。

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