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離婚と易と抽象の話

ドラマ『リコカツ』、ついに主人公2人が離婚届を提出してしまった!

あらら・・・なんだけど、でも、ひょっとすると、法的に拘束されなくなってからの方が自分たちの本当の気持ちに向き合えるんじゃないか? むしろその方がいいんじゃないか? なんて思う。

変化してる。すべて変化してる。変化してるのに、「決まったこと」というのはキツい。それが影響力が大きいほど、キツくなる。東京オリンピックがそれだ。「やる」にしても「やめる」にしても、影響が大きすぎる。だからキツい。まさかこんな環境になるとは誰一人思ってなかったし、誰が悪いとかそういう話ではなく、「変化したこと」がすべての原因なのだから、仕方ない。

変化といえば、易。

時々頼まれて、易をみる。もちろん本業じゃないし素人だから無料で。易は簡単に言うと、「変化しつづける中で、瞬間を仮に静止させたとして、次どのような動きをしそうか」。うー、言語化しづらい。もともと言語では表現できないサムシングを敢えて言語化したのが易経であり、五経(四書五経)のトップに位置づけられている。孔子先生も晩年勉強され、「これ、めっちゃ大事やで」おっしゃったと『論語』にある。

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一週間先のことすらわからないパンデミックの時代、まさに易は役に立つ。それは「占いとして先が当たるから」ではなく、変化の兆しを感じられるからだ。縄文時代をリスペクトしているぼくとしては、言語化したものは信用していない(と言いつつ、noteに言語を書き連ねている矛盾(笑))。だから易からも、「流れ」を感じるだけなのだが、これこそ本質だと思う。見えない流れを感じる、聞こえない音を感じる。

宇宙のすべては陰陽であり、陰ばかりは無いし、陽ばかりもない。

夏⚌ 秋⚎ 冬⚏ 春⚍ 移ろいが見えるよね? 陽が2本の夏が過ぎ、⚌ 陰が足元に訪れ秋⚎、やがて陰だけになり冬⚏、春の気配がやってきて大地が陽転する⚍

人生や商いもこれと同じで、陽ばかり、陰ばかりというのはない。どこかに兆しが必ずある。その兆しに気づくか気づかないかが、楽しさの総量を決める。

才能というのは陽で、感情・情緒は陰。陰陽だから両方のバランスが必要だ。ところが、才能だけでやっていける、と思い込んでいる人がたまにいる。言葉達者である。論理も達者だ。しかるに、魅力がない。

話は変わるが、弥生時代になって稲作が始まった。ここから論理と所有の概念が発達したのだと思う。論理は、「この時期に田植えしたら、稲の実りが良くなる」所有は、「ここからここまでがオレの土地、入っちゃダメよ」。論理も所有も陽だ。必ずそこに陰がついて回る。そうしないと宇宙に存在できなくなる。陰は「嫉妬(妬み嫉み)」ジェラシーとして生まれた。「あいつばっかりうまくやってやがる」「オレの田んぼ、狙ってるんじゃないか」弥生時代は具体の世界で出来ていた。

これに対して、縄文時代は抽象の世界だった。文字を持たなかった。文字にした途端、神から離れて人工になるから。縄文人が最も畏れ、遠ざけたのが、アーティフィシャル、人工だったのである。土器を作っても、敢えて祈りの模様を刻んだ。人工は具体。だから、稲作に代表される弥生時代は具体だった。

具体は、変化に弱い。工場を見れば納得してもらえると思う。

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この中のパイプ1つ変化させたら、全体がおかしくなる。精緻に出来ていればいるほど、変化に弱い。具体は変化を嫌う。

ところが、抽象は変化しつづける。アタマの中で考えることをイメージしてほしい。一秒たりとも同じはない。

つまり、抽象こそが易の本質であり、抽象を大事にすることこそが、変化の時代に生きる上で必要なのだ。

そして、幸せを感じるためにも、抽象的思考に慣れているといいよ。具体は、弥生人のように、「比較」を生み、やがて「妬み嫉み」へとつながっていくから。

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