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『蹴りたい背中』はなにがすごいのか~青春のアンビバレンス~

『蹴りたい背中』はすごい。

はじめてこの作品を読んだのは高校生のとき。ちょうど物語の主人公たちと同じくらいの年齢で、ぼくは長期の入院中だった。

ある日、読書好きの知人が見舞いに来て、「もしよかったら」と、古紙回収ぐらいの量の本をテーブルに積みあげた。全然よくはなかったが、言う前に相手は帰っていた。

夜な夜なぼくは、義務感から本をさばいていった。そしてその中の一冊が本書だったのだ。

すごい。

最年少で芥川賞を受賞! みたいな情報は耳に入っていたので「どうせ若いから注目されてるだけだろ」「どうせ本を売りたい出版社が獲らせたんだろ」と、どうせが口癖の思春期男子特有のこじらせを見せていたが、読み終わったときには見事に掌を返していた。

すごい、と。

この作品が平成の時代に書かれ、しかも親世代(もしかすると祖父母世代)の選考委員が一定の評価を与え芥川賞に選ばれた事実に感動した。

すごいすごいすごい、と偏差値2みたいな感想しか書いてないが、はじめて読んだときの頭の中はまさにそんな感じで、なにがすごいのか言語化できなくてもどかしかった。

その後も数年おきに読み返し、ぼくが感じた「すごい」の中身を自分なりに考えてきた。現時点で言語化できた部分を、自分なりに語っていこうと思う。なお、ネタバレを含むのでご注意を(読んでると思うけど)

①タイトルについて

いいタイトルの条件はいくつかある。なにより記憶に残ること。そのためには耳に残る語感とヴィジュアルとしての美しさ、そしていい意味での違和感(フックと言ってもいい)が求められる。「蹴りたい背中」はこのすべてを押さえている。

詳しく言うと「蹴りたい背中」には、4音+3音の7音という、日本人の耳に馴染むリズムがある。字面も、漢字とひらがなの数が3字+3字の半々で、軽くもないし重たくもない。

またタイトルからは主語などの必要な語が抜け落ちているので、読むまでタイトルがなにを指すかイマイチ分からないし、最後が体言止めになっていることで違和感がより強まっている(もしタイトルが「私はにな川の背中を蹴りたい」だったら興ざめですよね)。タイトルは作品全体を象徴していながら、読み終わったときにはじめてそのクエスチョンが解消される塩梅だ。

タイトルはいわばその作品のキャッチコピーみたいなもので、売れている作品には必ず心に残るタイトルがついている。コピーライターの谷山雅計氏は著書の中で、記憶に長く残るコピーを作る方法は

「あえてひと目ではわからず、受け手のアタマにちょっとだけ”汗をかかせる”ような言葉をつくる」

ことだと述べている。「なんだろう?」という引っかかりを作り、受け手がちょっとだけアタマをつかって「自分自身でわかった」と思える状況をつくってあげること。これが大事なのだという。「蹴りたい背中」はまさにそうで、ゆえに読者の記憶にも長く残っているのだろう。

参考までに、タイトルに言及した芥川賞の選評を引用しておく。

まずは古井由吉氏。

「蹴りたい背中」とは乱暴な表題である。ところが読み終えてみれば、快哉をとなえたくなるほど、的中している。

次に黒井千次氏。

読み終った時この風変りな表題に深く納得した。新人の作でこれほど内容と題名の美事に結びつく例は稀だろう。

②冒頭について

ちょっと長いが、冒頭を引用する。

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。

冒頭は作家が最も力を入れるところだ。ほとんどの読者が最初に目にするであろう作品の「顔」であり、この小説がどういう「スタンス」の作品なのかを示す、作者の選手宣誓である。

「最も力を入れる」と書いたが、冒頭の力の入れ方にもいろいろあって、ボキャブラリー総動員のアクセル全開でスタートダッシュを決める人もいれば、ベテランの落ちつきで何かの続きのようにシームレスにさらっと始める人もいる。どちらにしても冒頭には作者のこだわりが反映されており、読者からしても、その作品との相性を判断する重要な部分になる。

『蹴りたい背中』の冒頭は、なかなかの気合いの入りようである。さびしさは鳴る、といういささか文学的な表現に始まってドライヴ感のある前のめりな文章を連ねている。必然的に読者のなかには拒否感を示す人も出てくる。当時芥川賞の選考委員であった三浦哲郎氏の選評がいい例だ。

この人の文章は書き出しから素直に頭に入ってこなかった。たとえば『葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。』という不可解な文章。私には幼さばかりが目につく作品であった。

「不可解」「幼さ」みたいなそれっぽいワードで語っているが、ようするに「私の好みじゃない」と言っているのだろう。高校生が主人公の一人称の物語が幼くてなにが悪いのか正直ぼくにはよくわからないが。

このように読者をふるいにかける意味でも、冒頭は手が抜けない。

もう少し、冒頭の工夫について続ける。

一文目の「さびしさは鳴る」という違和感のある表現について、通常「さびしさ」と来たら「感じる」や「抱く」と続くことを期待するが、これをあえて「鳴る」と五感をずらす、あるいは五感をねじることで違和感が生まれている。散文の冒頭にしてはずいぶん詩的な表現だ。文章にこうした違和感があると、読者の想像はかき立てられ、その先へと自然と読み進めたくなる(少なくともぼくはそうです)。ちなみにこの一文目も5音+2音の7音とリズムのよさで読者を後押ししている。

その後も作者は、手垢のついていない表現で読者の先入観に揺さぶりをかけ、読者を飽きさせない。名曲における不協和音のように、『蹴りたい背中』においても「不可解な文章」が効果的に使用されている。まさに三浦哲郎が「不可解な文章」と読んだものが、この小説の魅力、動力となっているのだ。

冒頭絡みでもうひとつ指摘すると、綿矢りさは情報の取捨選択がすごい。主人公が置かれた状況を説明しすぎず、しなさすぎず、適切なタイミングで過不足なく読み手に伝える腕がある。読者との駆け引きがうまい、と言うのだろうか。

小説の読者は、文字という情報量に制約のあるメディアを通じて物語世界を把握していくほかない。作者が意図するにせよしないにせよ、物語には多くの空白が生まれる。ディテールや会話を通じて間接的に、段階的に、多面的に、それらの空白が明らかにされることにより、物語世界は豊かで奥行きのあるものとして立ち上がってくる仕組みだ。

このように文字という情報量に制約のあるメディアで物語るがゆえに、なにをどのように語るかが肝心で、たとえば『蹴りたい背中』の冒頭が「私は高校生で、いま理科室にいる。クラスメイトに孤独を悟られないようにプリントを細長く千切っている。微生物を見てはしゃいでいるクラスメイトを、高校生なのだからと冷ややかな目で見ている。」みたいな感じだったら伝わる情報が同じだとしても、読書体験としては非常に貧しいものになると思う。

シンプルな直線だけで構成されたジェットコースターがおもしろくないように、小説も、単純で簡潔であればいいというものでもない。のろのろ上昇する場面もあれば、急降下する場面もあれば、急カーブや一回転もある。最短距離を直線で結ぶのではなく、緩急や迂回があるからこそ小説は豊かになるのだと、『蹴りたい背中』は改めて認識させてくれる。

③ハツのにな川に対する感情について

①②と細かいことを書いてきた。この調子でいくと終わりそうにないので本題に。ここまでは正直余談みたいなもので、この③がぼくの書きたかった部分だ。

まず、ハツのことから。

この小説は一人称で語られる。一人称ゆえに語り口には主人公の特徴が色濃く反映されるわけだが、文章を読んでいてまず目につくのは、その比喩表現である。冒頭から数ページ読んだだけでも、

「ポテトチップスを噛み砕いている時のような、ぱりぱりした音」「味噌汁の、砂が抜けきっていないあさりを噛みしめて、じゃりっときた時と同じ」「醤油を瓶ごと頭にこぼしてしまったかのような重く黒く長すぎる前髪」「プリッツを砕いたような軽い音」

というように、あまり他人が使わないような、ちょっと癖のある(人によっては稚拙と感じるであろう)比喩が多く見られ、一筋縄ではいかないハツの性格が文章上でも表現されている。

文庫版の解説において、斎藤美奈子氏は「彼女の五感、とりわけ聴覚と視覚が異様に研ぎ澄まされている」と指摘している。比喩からも、主人公の五感がいかに研ぎ澄まされているか、そして主人公が周囲をいかに意識して生きているかが伝わってくるだろう。

なぜハツが周囲を意識するのかいうとクラスになじめないからで、しかしクラスには、なじめていないにもかかわらず周囲を意識していない(ように見える)人間がいる。にな川である。

にな川も、これまた一癖も二癖もある人物だ。おそらく漢字では「蜷川」なのだろうが、この物語では最後までひらがなの「にな川」で統一されている。彼は、オリチャンというモデルに夢中で他のことにはまったく興味を示さない。いつまでも夢を見続けようとする彼の態度、彼の「もの哀しく丸まった、無防備な背中」に、ひらがなの「にな川」の字面は見事にフィットしていて、こうした細部のこだわりにも作者の配慮が行き届いている。

すでに書いたが、ハツは、自分とは対称的なにな川のことが気になる。他人を気にしないにな川が気になる。気になる、というのは、もちろん恋心などではない。友情というのとも違う。

ここで触れておきたいのが、絹代というキャラクターの役割である。ことあるごとに絹代は、ハツとにな川を恋愛という陳腐な図式に当てはめようとする。ハツは反発を覚える。図星だったからではない。ではこの感情はなんなのか。

にな川を見下ろすのって、なんだか気持ちいい。
この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。

物語の前半部分のこうした箇所を引いて、サディズムといった分析を加え性的な衝動を語るのは見え透いていて、それこそ陳腐なものになってしまうからやらない。

そもそも小説とは、名状しがたい感情を、心理のひだを、物語という過程を通して表現するものではなかったか。と言ってしまったら、これまた陳腐な締め方になってしまうので、もう少し土俵際で粘ってハツの感情を追いかけてみたい。

困ったときはタイトルに戻るにかぎる。『蹴りたい背中』というタイトルを分解し、前半の「蹴りたい」という部分に注目する。当たり前だが、殴りたいわけでもなく投げたいわけでもない、あくまで蹴りたいなのだ。

足蹴にする、という表現があるように、蹴るという動作には恋だの愛だのとは遠いマイナスの感情が伴う。軽蔑とか嫌悪とか、相手を遠ざけようとする行動である。ハツは陸上部。蹴るにしても相当な脚力だ。

しかも蹴る場所は背中。腹でも膝でもなく背中なのだ。

背中について考えるときに(あまりないけど)必ず思い出す文章がある。小池昌代氏の『黒雲の下で卵をあたためる』に収録された「背・背中・背後」というエッセイである。いくつか引用する。

背中は、そのひとの無意識があふれているように感じられる場所である。だから誰かの後ろ姿を見るとき、見てはならないものを見たようで後ろめたい感じを覚える。
ひとは自分の背後の世界で、何が起きているか知り得ない。だから背後は、そのひとの後ろに広がっているのに、そのひとだけを唯一、排除して広がっている。
意識が及ぶのは、常に眼前の世界で、背後のことは即座に忘れられる。視線の行くところが意識の向くところだ。
こちら側の世界と触れ合わない、もうひとつの世界が同時進行で存在している。そのことに気づくとおそろしくなる。背後とはまるで、彼岸のようではないか。

背後を「死角」と呼ぶことの、不思議な符合。この文章を読んだとき、世界を見通す詩人の目線の鋭さと言葉の奥深さに意表を衝かれた。

話を『蹴りたい背中』に戻す。

ハツとにな川は、付き合いたての恋人のような向かい合う関係ではない。同じ方を向いている。にな川はなにかを(特にオリチャンを)を見ており、ハツはにな川の背中を見ている。視線は交わらない。無防備な背中を晒せるのは、背後にいる人間をまったく意識していないか、あるいは信頼しているかのどちらかで、にな川は後者ではなさそうだ。

物語の最後にハツは、にな川の背中を見てこう思う。

いためつけたい。蹴りたい。愛しさよりも、もっと強い気持ちで。足をそっと伸ばして爪先を彼の背中に押し付けたら、力が入って、親指の骨が軽くぽきっと鳴った。

ここで注目してもらいたいのは、蹴りたい、と思ってはいるが、実際には蹴ってはいないということだ。思いきり蹴り飛ばすことはできず、実際は爪先を彼の背中に押し付けているだけなのである。

物語の中盤、にな川の部屋にあがったハツは、オリチャンのラジオを聴いているにな川の背中をためらいもなく蹴っている。この時はにな川が前にのめるほど強く蹴ることができたのに、最後には強く蹴れなくなっている。オリチャンのライヴを経て、絹代を媒介としてハツとにな川の関係性が変化していることがここから読みとれるが、話が逸れていきそうなので最後のシーンに戻す。

背中に感触を感じたにな川が振り返ると、ハツは次のような行動をとる。最後の一節。

気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた。

思いきり蹴ることができない上に、蹴ったのを疑われても気づいていないふりをする。大きく息をはくことができず、はく息も震える。どちらにも振り切ることができない宙ぶらりんのハツの立ち位置が、こうしたディテールからうかがえる。

芥川賞の選考委員だった古井由吉氏は「何かがきわまりかけて、きわまらない」と選評のなかで表現しているが、これほどこの作品の根幹を過不足なく表現した言葉はない。

仮にハツが、最後のシーンでにな川の背中を思い切り蹴っていたなら、わかりやすい物語が好きな読者を喜ばせはしただろうが、小説としてはあまりにあっけないものになっていただろう。タイトルも『蹴った背中』にしたほうがいい。

物語を少し遡って、オリチャンのライヴの帰り、暴走するにな川を見てハツはこう思う。

こんなにたくさんの人に囲まれた興奮の真ん中で、にな川がさびしい。彼を可哀相と思う気持ちと同じ速度で、反対側のもう一つの激情に引っぱられていく。にな川の傷ついた顔を見たい。もっとかわいそうになれ。

自分の十代の頃を思い返すと、相反する感情に両側から引っぱられながらも前に進まなければならず、ひどく心もとなかった記憶がある。大人になるとある程度ものごとの割り切り方がわかってくるが、いわゆる思春期のころには何事もそう簡単に割り切れない。誰しも多かれ少なかれ、精神的に不安定になってしまうものだと思う。精神的な不安定さの現れ方は人それぞれで、バイクで夜道を暴走する人もいれば、猛然と勉強にのめりこむ人もいれば、性的に奔放になる人もいる。

ハツは、クラスではメイングループに入れず、学校でも不安定な立ち位置にいる。別にひとりでもいい、と割り切っている風を装っているが、その心の内はたえず揺れ動いていて、メインストリームにいる絹代の言動にも敏感に反応してしまう。かといって、絹代のような要領のよさとは対極にいるにな川のように振り切ることもできない。

ハツの不安定さは、にな川の背中を蹴りたいという欲望として現れる。蹴ることでなにかを得たいわけではない。ただ蹴りたいと思う。

男の背中を蹴りたいというハツの欲望は、個人的なものだ。背中を蹴りたいという欲望を一作品を通して描こうだなんて、綿矢りさでなければ思わなかっただろう。極めて個人的な欲望にすぎないものを高校生活のディテールを通して徹底して小さく具体的に描ききることで、誰もがなんとなく理解できる開かれた青春物語としてギリギリ普遍的な場所に着地させた腕が、手練れの作家たちに評価されたのだと思う。

あらためて、すごいとしか言いようがない物語である(了)

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