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飽きられる前に散る桜

さくらだといふ
春だといふ
一寸お待ち
どこかに
泣いてる人もあろうに

「桜」山村暮鳥

未練か執着か

ポケットに手を入れたら何かに触れた。目に見えないそれは、もう掴むことができないものだった。確かに触れられるけれど感じることができないそれを、捨てられないままポケットの奥に突っ込んだ。また取り出せるくらいの深さに。


それぞれの記憶の欠片

桜が舞い始めた。こんなにも冷ややかな気持ちで見る桜は久々だった。見上げても、頭に乗っても、掴んでも、綺麗だと言葉にすることさえ億劫に感じた。綺麗だと思えば思うほど、胸の奥は淀んでいくばかりで仕方がない。手が小刻みに震え、それはもう痙攣だった。つまらない。
そよ風が桜を弄び、前髪を攫う。まだ散るには早すぎると切なくなる思いとは裏腹に、もう見たくはないと目を逸らした。桜を見上げる人の数だけ、声や匂い、嬉しいや悲しいといった感情があって、桜が息吹くとともに追憶がなされる。散れば、記憶も散る。そしてまた来年に蘇る。この僅かな瞬間に、僕たちの感情は何往復もする。見えるものの背景には見えないものが渦巻いている。僕たちは、春になるたびにその色を待っている。


村上春樹に聞いてみたけど

羽を広げて急降下した。墜落ギリギリのところで止まれをしている。『女のいない男たち』の「女」と「男」を「彼女」と「僕」に置き換えて声に出してみた。しっくりこなかった。気持ちが悪くなった。そして、受け入れた。受け入れてみた。涙はまだ流れるはずだった。でもこの涙は流していい涙ではなかった。拭う前に流れさせるべきものではなかった。


自殺した雪だるまの冷たさが残る路地脇に黄色の花が咲いていた。一輪、踏まれないように必死に生きているみたいだった。なぜ一輪だけがそこに咲いたのだろう。分からないまま咲き、分からないなりに咲き続けているのかもしれない。いつか枯れてしまうことは知っているのだろうか。知らないふりをしている、あるいは枯れはしないと信じているのだと思った。しかし、枯れさせた。


目に見えないものを撮りたい

夕暮れの空に大波のように浮かぶ雲を撮影してみたら、どこか既視感があった。いつもより少しお空に近い場所だね。脳裏で反響する声の持ち主は、この街の上から去っていった。見えないものだけが、ここに残り続けている。残り香とはよく言ったもので、ふと鼻の奥で感じる輪郭のない存在を誰しもが感じているのだろう。至る所に散らばった欠片を拾っていくだけの生き方もいいと思えた。写真には、見えない感情や記憶や匂いが写っている。その見えないものを残しておきたいと願った過去の自分だけは褒めてあげよう。遡って見てみると、よく撮れていた。


飽きられる前に散る桜は賢い

桜は儚いと誰もが言う。飽きられる前に散ってしまうからこそ、また来年も見たいと思うのだと。桜は賢い。飽きられてしまうことを知っているから、早すぎる程度に姿を消してしまう。でも、桜は散りたくて散っているのだろうかと考えてしまう。終わらせたくて終わる恋の方が少ないだろう。終わってしまってから、終わらせたくはなかったのだと気が付くのが恋なのだろう。桜はまた息吹く。来年になれば必ず咲き乱れるし、僕たちは見ることも感じることもできる。それなら、桜のようになりたい。また出会える季節がやってくるのだとしたら、僕はあなたの桜になりたいと願い、風に乗って散りゆく桜の行く末を見つめた。


あとがき

もう二度と行くことができないあの部屋の灯りがついていた。すでに他の誰かがそこで生活をしている。
三年間。
唯一、あのワンルームに転がる欠片だけは拾うことができなくなった。


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