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いま伝えたいことがあります

 気になったタイトルを見つけて興味のあるものから読み進めていただきたい。気になった言葉にマーカーで色をつけて、そのとき思いついた言葉を書き込んで欲しい。私の書いた文字と文字の間には、書き切れなかった私の想いが隠されている。その余白は、読者が読者の言葉で埋めて欲しい。そうすることで書かれた文章が自由に歩き出し、読者の世界と繋がる。文章ってそんなものだと思う。

「間違い」が出来ない仕組み

2022年5月4日 掲載

北海道知床半島沖の観光船遭難事故の報道が続いている。救助に向けての様々な行動が毎日知らされる。同時に事故の原因についても新しい事実が集められてきた。

事故発生時の連絡方法、携帯電話は繋がらなかったようだ。極寒での救命用具も問題となった。出港の判断も利益優先であったとされている。船長の経験不足、そして観光船を運営する会社の社長の発言や行動も批判されている。さらに被害にあった乗客を悲しいエピソードを絡めて紹介している。そして、事故を招いた不十分な事業認可の方法も事故の一因として上がった。

救助が進まない今、情報が放射線状に広がっている。集められている。
情報は飛び込んでくるものでなく、意図的に集められている。

そうすると、報道を見ている傍観者はそろそろ分からなくなる。興味も薄れていく。新しい事件が起きれば、遭難事故の新事実は新聞の一面から見開きのページに移動する。そして、いつかはその波紋は薄まりぼやけていく。


だから今、ここで書き留めておきたい。

何かを学ぶとしたら ・・・ 「人は間違うということ」

間違いにも二種類ある。

ひとつは、判断ミス
天候不良で他の観光船が欠航しているのに出港したこと。事実を丁寧に集め、意図を入れず、正確に冷静に判断することだ。

もうひとつは、いけないと分かっていてもやってしまうこと。
これが大きな問題となった。

会社の通信アンテナが壊れていたこと、救命いかだの不備、通信手段の不足など。いけないと分かっていても、「まさか事故は起こるまい」と油断していたと思う。しかし、これは利益優先体質という言葉で済まされることではない。

「不備があれば出港できない」、こんな仕組みがあったらと思う。
通信設備、救命用具、乗員の経験規定など、厳しいが規定をクリアしないと事業を運営できない。出港できない。やりたくても出来ない。仕事の中に曖昧さを無くすことだ。都合よく誤魔化すことも出来ないようにする。

「利益優先体質」と批判されなくても、誰もが「これぐらいはいいだろう」と楽な方に流れる。「そんな人じゃない」と信頼していても、人は楽な方に流されてしまう。自動車製造業での検査不正、産地偽装など、過去にも同じような「不正」があった。

だからこそ、人には「不正が出来ない仕組み」が必要だと思う。人に道徳を求めながら、同時に「不正ができない仕組み」の中で人を動かすことだ。

それは、被害者を出さないと同時に会社と従業員を守る。今回の事故も被害者やその家族だけじゃない。会社の従業員、その家族。関連するホテルの社員やその家族、多くの人を不幸にする。知床に重苦しい冬の雲を再び呼びよせてしまった。

今回の遭難事故を非常識な観光船会社の特異な事件として済ましてはいけない。

「自分は間違う」と思って、その対策をしておくことだ。間違いを出来ない仕組みを作っておくことだ。間違いがあると仕事が前に進まない。そんな厚い壁を仕組みとして作っておくことだ。

以前私も気持ちが不安定な時期があった。
自分が正しいと思っても、このままでは何かとんでもない失敗を起こす恐怖心があった。

そんなとき、どうしたか?
信頼する同僚に「私が間違いをしそうになったら遠慮なく言ってほしい」と頼んでいた。そうすることで、変に思っても言われた同僚も間違いを指摘しやすくなる。我ながら思い切ったものだ。でもこんな自分を守る仕組みも必要だと思う。


難しく考える必要はない。出来ることから行動する。
とにかく何か行動を起こすことだ。
「自分は弱い」「自分は間違う」と思えば、気持ちも楽になる。


テレビのコメンテーターが、事業認可など行政の不備を訴えていた。

何も無い時代は、行政が仕組みを作って、その中で社会が動いていた。でも今は、行政よりも現実の社会活動の方が前を走っている。だから「行政が悪い」と言っても、行政は社会活動の後追いでしかない。だったら、間違いを出来ない仕組みを自分たちで作るしかない。

そして、いつも悪いのは行政?でも行政って誰だろうか?
行動を起こす個人を特定できなければ、いつまで経っても変わらない。また別の事件が起きて、また「行政に問題がある」という形ばかりの言葉を繰り返すことになる。


お客様までも使い捨てか?

2021年11月29日 掲載

ピーチの「旅くじ」が、10月に発売された。
好評すぎて一時停止されたが、今月再度東京、名古屋、大阪で販売された。

五千円でガチャガチャのカプセルを買う。行き先はカプセルの中にあるという。ピーチらしい面白い発想だ。「旅行先が決まっていて航空券を探す」のではない。航空券が先で、それに合わせて日程を考え旅行のスケジュールを立てる。それでもとても好評だった。

面白い、でもアイデアだけで終わってはつまらない。
だからこの陰に何が隠されているか、考えてみた。

・魅力ある旅先に行きたいと思わせる
・飛行機に乗りたい、ちょっとの優越感(?)を感じて旅したい
・飛行機に乗るワクワク感、解放感(開放感)
・五千円というリーズナブルな値段
・旅行先がどこだかわからないというチャレンジ
・準備する、待つ時間を楽しむ、そして楽しみはもう始まっている
・「旅行に行こう」と「飛行機に乗ろう」

まだまだある気がする。
そして業種が違ってもヒントになるものが必ずある。


コロナ感染が落ち着きを取り戻し、旅行業界への支援が用意されている。
でも、「GO TO キャンペーン」だけでいいのだろうか?

起爆剤にはなるだろう。
でも、強いキャンペーンはよく効く注射と同じで、その時は楽になるが続けて打てば身体を痛める。
「GO TO キャンペーン」は、言ってみれば値下げ合戦だ。
その後どんな手を打つのか、これがもっと大切になる。
自分の健康を保つ生活改善がホテルや旅館に求められる。

思えば、ホテルも旅館も「お客様を使い捨て」にしてきた。
一度来たお客様はもう来ない、だから次のお客さんを旅行社を通して探してもらう。そんな風に思えてならない。
それは旅行者も同じだ。一度行った所はもういい、だからまだまだ行きたい所があると次を探す。

でも、そんな時代はもう終わるような気がする。
いや、いい意味でもう終わらせなければならない。


これからは、こんなホテルや旅館の出現を期待したい。

・一度来たお客様と永いお付き合いを続ける
例えば、SNSなどを使って情報提供を続ける。再訪できないなら知人に魅力を伝えてもらうような工夫をする。
・ホテルや旅館が地域の情報発信基地の役割を担う
ホテルや旅館が中心になり、地場の商品や特産物、体験も含めた移住計画なども企画する。
・宿泊客との事前のコミュニケーション
宿泊前にホテル側からSNSなどを使ってお客さんとコミュニケーションを図る。ホテルはその日だけだが、お客さんは準備の段階から旅行は始まっている。
・また来てもらう理由ではなく、また来たい理由、来なければいけない理由を創る


今年初め、地元の老舗ホテルが倒産した。コロナ感染が蔓延して中国人旅行客が激減したことが直接の理由だった。そのホテルは、お客様の90%が中国人だった。今思えば、とてもハイリスクな経営をしていたように思う。
でもその時は気づかない、この状態がずっと続くと思っていた。

そのとき、お客様は使い捨てだった。


ピーチのホームページにこんな言葉があった。
「地域の新しい魅力を発見する実験室」
「さまざまな人と繋がりながら、今まで感じなかったちょっとした違和感を好きかもに変えていくことを目指します」

単に「旅くじ」というアイデアだけではない。
ミッションというプラスアルファを付けて、「みんなでつくる旅の小ネタ帳」に情報を集めていく。そこからまた新たな発想が生まれそうだ。

そしてまた、ピーチの飛行機を使って旅行に出る。
いや、もしかして飛行機を使って人が動かなくても産直品などのモノを動かすかもしれない。様々な可能性がある。

ポイントはホームページに書いてある。

「さまざまな人と繋がりながら、今まで感じなかったちょっとした違和感を好きかもに変えていくことを目指します」

ここに仕事を変える気づきがある。


誰も置き去りにしない

2020年1月13日 記載

 何か書いてみたいと思うとき、偶然に輝く言葉に遭遇することがある。
探すほどに見つからなかったのに、偶然頭の中の定置網に掛かったようだ。華やかで煌びやかなものもあるが、どちらかというと、私はちょっとくすんだ言葉に惹かれる。

見つけたのは、5年前の国連サミットで採択された、
「持続可能な開発のための2030アジェンダ(政策課題)」の合言葉

「誰一人も置き去りにしない」

この「誰一人も置き去りにしない」に妙に惹かれた。



美しい国を作ろう、助け合おうなんていう「上を向いて歩こう」的なポエムではなく、足元に目を向けて、誰にも拾ってもらえない折り鶴を手に取る絵が見える。

ナミダガコボレナイヨウニ踏ん張って上を目指すことも大切だろう。
でも空ばっかり見ていると、路上に落ちた美しい折り鶴に気づかない。
気づかないばかりか踏みつけてしまう。

生活はどんどん便利になっていく。
その代償として時間が足早に不足している。
安価な折り紙の鶴なんて壊してもまた買えばいい、なんて思っていないだろうか。

 思えば、今まで数多くの折り鶴を踏みつけていた。実際に踏みつけなくても、踏まれて汚れた鶴を見捨ててはいなかったか。
拾い上げて泥を払って形を整えれば、誰かの手に渡って喜びのもとになる。病院で完治を目指す患者の千羽鶴の一羽となる。

路上に落ちた折り鶴は大概汚れている。
いやでも汗や油にまみれている。

汚れの元は何だろうか。
雨や嵐で傷つくこともある。その時は、北の空に飛んで逃げることができないから、その場所で雨風をじっと凌ぐしかない。でも雨はいつか止む。

厄介なのは、社会が汚れの元になった時だ。
嫌なもの、汚いものを下水管に流していく。
でも大雨で汚水が溢れれば、その汚れは路上の折り鶴に無情に迫る。

社会という大きな塊ではなくて、私たち一粒一粒が汚水にならないことを考えなければならない。
例えなったとしても汚した心で折り鶴を傷つけてはいけない。


 美しい折り鶴を、後進国の働く子供たちに見たてて想像してみた。
置きざりにされた子どもはたくさんいる。
「誰一人も……」と、今は言えない。
おそらくこの十年でも無くならないだろう。
でも「このひとり」から、「この子」からと思えば、社会は変わる。


黒い糸のからまり

2022年9月26日 掲載

糸のからまりは小さなダマから始まる。
さまざまな色の糸がダマをつくり、ダマとダマが絡まってやがて大きな糸の塊になる。

赤色、黄色、青色は、それぞれ同じ量が混ざると黒色になるという。だから、この塊も徐々に黒くなるかもしれない。汚れて埃をかぶれば気味悪い黒色に成長する。

ややこしく絡み合った糸の塊は、人のもたらす利害関係のようだ。困ったことに、絡み合ったままの方が安定したりする。

小さなダマを大きく成長させたのは、「忖度」かもしれない。他人の心中をおしはかる「忖度」も、本当は自分を守るためにある。その人を守るためではない。

「忖度」のエネルギーは、観客が映画館のスクリーンで見るようにその人を巨大化させる。

でも実際の姿は私たちと変わらない。
だからどんなに守られても凶弾に倒れることがある。

どうにもならなくなった糸のからまりに、強引にハサミを入れてバラバラにしようとした。私怨もあるがそう思えてならない。

ダマとダマのつながりは糸が切れたことで少しばらついた。でも小さなダマはそのまま残っている。そしてまた互いの利益を守ろうとして、ダマたちは黒い塊をつくり始める。

かたまり(絡まり)をひとつひとつ丁寧にほどいていくしかない。小さなひとつの塊でも、それがほどけたとき他のからまりもほどけることがある。赤や黄色、青色のうちに時間をかけてでもほどくしかない。

それでも、一度ほどかれた糸もしばらくはくせが残る。だからほどいた後も糸を丁寧に伸ばすことも必要だ。そうしないとまた絡まり始める。

糸はもともと織り込まれ、布になって寒さに耐える人を包むものになるはずだった。そんな大切なものをいつまでも絡めていてはいけない。

中島みゆきの「糸」にこんな歌詞がある。

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを暖めうるかもしれない

急がなければいけない。
また誰かが絡まった糸を強引に引き裂くかもしれない。
ヒトも、自然も、戦争も。原発だってそのハサミになりうる。政界、芸能界、スポーツ界、経済界、糸のからまりはどこにでも存在している。


この子はどう生きてきた子どもなのか

2021年8月10 掲載

新聞の紙面のなかでこんな言葉を見つけた。

「死を照らし出す」

大切なことは、「なぜ亡くなったのか」と同時に、「どう生きてきた子どもなのか」ということだ。「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」
死を照らし出すとは、亡くなったこと、命を失ったことの重大さを伝えることだ。

「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」

子ども達が犠牲になる事件が続いている。
報道の中で、どうして亡くなったのかは伝えられる。いじめがあったり、虐待があったり。こうして原因の言葉を連ねるだけでも胸の奥が痛い。
自分が何か出来たわけでもないのに、今こうして普通に暮らせる自分が情けなく憎くなる。私はこの子たちよりはるかに多くの時間を生きることが出来たのに。

亡くなったことばかりに目を向けても、その原因を作り出した相手や許した社会を責めるばかりだ。怒りは自分に毒を盛り、触れるだけで身体を震わせ他人を罵る。自分もそこから抜け出せないでいる。

苦しさはそれだけで存在しない。そう思いたい。
どこかでしあわせな時間があったことを信じたい。
そうしないと、今こうして書いてる自分が息苦しくなる。

何を思って生きていたのか、どんな苦しさだったのか、それでもうれしいときはあったのか、その子の生きた軌跡を想いたい。

そしてこんな言葉も見つけた。

私たちに欠けているのは、知らないものについての知識のことなのではなく
知っているものを深く考える能力である

仏社会学者 エドガー・モラン 「科学の言葉」

「深く考える」とはどういうことか。わからない。
でも、出来るとしたら、
「この子は、どう生きてきた子どもなのか」に目を向けることだと思う。

「私たちは数字の海に生きていない」という言葉がある。犠牲者の数だけ並べて社会を批判しても、その子を理解したことにならない。苦痛を並べ挙げて終わってしまう。情報は得ても真実にたどり着けない。

「苦しかったけど、こんなうれしいことがあった」、そんな事実を発見できれば、「そう、よかったね」「うれしかったね」と、自分も救われる。亡くなった子どもを、「今度はもっとしあわせになろうね」と送り出せる。辛い事実は変えられないが、私の憤りは少しだけどおさまる。

犠牲になった子ども達は、みんな笑顔で写真に納まっていた。この時どんなうれしいことがあったのか、見つけてあげたい。
そして、そんなしあわせがもっと続くはずだったのに。そのしあわせを奪ってしまった事実を照らし出す。これで命を失った重大さに辿り着く。


「この子は、どう生きてきた子どもなのか」

考えても亡くなった事実は変わらない。
でも、「なぜ亡くなったのか」と同じくらい大切にしたい問いかけだ。

合わせて読んでいただきたい。



#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門


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