心をめぐる読書 おすすめの5冊

この何年か、心をめぐる本をぽつぽつ読んでいたが、近頃、自分の中での考えごとが一段落した気がしている。
今後も心理学関連の本を読むことはあっても、読むこちらの態度は変わって来ると思う。
これまで読んで来た中で、おすすめの本を紹介していく。

斎藤環『思春期ポストモダン 成熟はいかにして可能か』(幻冬舎新書)
著者は、ラカン精神分析の解説者、ひきこもり問題の第一人者、対話型心理療法オープンダイアローグの紹介者、と様々な顔を持つ精神科医。
本書の序章では若者論が求められるメカニズムが紹介されている。若者論とは若者を理解するためのものではない。若者を理解できなくても年長者たちが安心できるように若者論が作られる。そこでなされているのは、いかにして若者たちをこちらの言葉が通じないエイリアンに仕立て上げるか、そのロジックの組み立てだ。若者たちを対話不可能、対話不必要な存在とすることで、理解しないまま安心する。そのためにこそ若者論が求められるのだという(序章は30ページほどの長さだがこの部分だけでも読み応えがある)。
著者はこうした構造から抜け出すことを試みる。若者に着目するだけでは若者が抱える問題は改善されない。本書は若者を取り巻く環境、社会状況と照らし合わせながら、ひきこもりをはじめとした諸問題に向き合っていく。

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
普通、自分のした行為は能動的なもの、人からされた行為を受動的なものとされるが、さまざまな行為は「する」と「される」に綺麗に分けられるものではない。自らした行為ではあるものの、何らかの力に強いられてそれをした、ということや、何か大きな力の流れの最中にいたために、ある行為に加担してしまう、ということもある。する側、した側ではあるものの、自らの意志によってなした行為と言い切れないような行為がある。受動態と能動態に収まらない中動態という態からそうした行為について考えるのが本書だ。
自分の行為が必ずしも自分の意志によるものといえないと考え出したら、自分のあらゆる行為を無限に懐疑するということもあり得ないわけではない。けれど、能動と受動だけではなく中動という態も認めることで自分自身の行為や欲望について整理しやすくなることが実はとても多いのではないか。

斎藤環・與那覇潤『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)
先に『思春期ポストモダン』でも取り上げた精神科医、斎藤環とうつ病を経験した歴史学者、與那覇潤の全9章に渡る心をめぐる対話からなる本。2020年に刊行された本書では平成の30年の中で日本社会がどのように変化したか、またそれに伴って心の不調のありようや捉え方はどのように変わって来たかが辿られている。特定のコミュニケーションのスタイルが偏重され、そこからこぼれればたちまち「コミュ障」と見なされる社会への言及、発達障害の診断やその理解をめぐる議論、ハラスメントについての考察など、現代にいたる社会の変遷とそこから照らし出される現代日本社会のいびつさを確かめていくことは、今日の暮らしの中に感じる憂うつや窮屈さについて考える一助となると思う。

磯野真穂『ダイエット幻想 やせること、愛さえること』(ちくまプリマー新書)
不安になったり、憂うつになったり、どこかに行くのが嫌になったり面倒臭くなる。心の調子を悪くする大きな一因に他者の存在がある。実際に自分に危害を加える誰かがいるわけでもないし、これから自分を嫌っている誰かに会いに行くわけでもない。あるいは他者とは具体的にそこにいる中島君や花沢さんのことではなくもっと抽象的な存在である場合もある。それでも他者がいることが心の調子を狂わせるということはある。自分は他者からどのように見られるか、他者と比べたときに自分はどのような価値を持っているか、どうすれば自分は他者から望まれる存在となるか。その度合いに差はあるにせよ自分が他者からどのように捉えられるかを考えずに人はおよそ生活することが出来ない。
そうした他者、自分の内面に入り込み、時には調子を狂わせるほどにこちらの心を満たしてしまう他者のことを本書はダイエットという切り口から考える。痩せたいという気持ちはどのように生まれて来るかを辿る考察は、そのまま自らと他者をめぐる考察ともなっている。

鳥羽和久『おやときどきこども』(ナナロク社)
心理学と関わる本を読む際、何より戒めるべきはそこで覚えた知識やノウハウで自分の周りにいるあの人やこの人の心を上手く転がしたり、何か診断をしてやろうといった算段でそれらを読むことではないか。浅知恵で出来上がった似非心理学者ほど質の悪いものはない。心をめぐる本を読むのはもっぱら自らの心に向き合うためだと思う。
人の気持ちや人が関わる事象には、上手くつかめないあやふやなものがあって、何をやっても結局、そのあやふやなもののあやふやさは無くならない。けれども、方法や概念を身につけていくことで、あやふやの範囲を狭めたり、もっと近くでそれを見つめたり、以前よりは上手く付き合えるようになる。そうやってあやふやさへの耐性を育むため、それを捻じ曲げたり、無いものにしないで、出来るだけあやふやさと向き合えるようになるため、そのためにこそ自分はその類の本を読んで来たような気がする。
学習塾の経営者として小中高生とその保護者たちと関わる著者によって書かれた本書は、日々の活動の中で、そうしたあやふやさと向き合った実践の記録として読める。思想書や小説、映画や音楽にも触れながら描かれる著者と塾生たちとの日々の対話、そこからは、あやふやさと向き合い、考える人の柔らかな態度が浮かび上がる。


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