見出し画像

「エール」古山裕一がコロンブス・レコードを首になりそうになった原因を作った作曲家

(写真/江口夜詩記念館/筆者撮影 2020.6)

「十九の春」「月月火水木金金」
「憧れのハワイ航路」…
この中でもし1曲でもご存知なら、貴方はかなり人生の達人だ。
そんなイントロ、ぜぇーんぜん興味がない!と言われそうなので、言い換えてみる。
 「朝ドラ「エール」の主人公・古山裕一がコロンブス・レコードを首になりかけたキッカケを作った作曲家!」そう、「エール」には残念ながら登場していないが、その人こそわが敬愛する江口夜詩(1903〜78)その人である。

画像3

 江口夜詩 40代の頃(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E5%A4%9C%E8%A9%A9)

一連のコロナ 騒動のため、現在中断されているNHKの朝ドラ「エール」のモデルとなった作曲家・古關裕而 (1909~89) についていろいろ調べるうち、江口夜詩という名前に出会った。古關が日本コロムビアに入社後ヒット曲を生み出せず、業を煮やした会社側がスカウトして来た作曲家が江口だった。彼はもともとポリドールで月給30円で雇われていた作曲家だったが、1932年(昭和7年)11月にリリースした「忘られぬ花」(歌/池上利夫=後の松平晃)がヒットし、一躍注目されるようになっていた。ポリドールの専属が切れて一年経った1933年(昭和8年)3月、コロムビアは江口に入社支度金二千円、月給三百円という破格の好条件を用意した。当時の古關の月給は二百円であったから、評価の違いは歴然である。
コロムビアに入社後すぐに江口は「十九の春」(歌/ミス・コロムビア)「急げ幌馬車」(歌/松平晃)などのヒットを連発、1934年(昭和9年)12月に発売された30枚の新譜のうち20枚が江口の手によるものという大活躍であった。

画像3


「十九の春」レコードと歌詞カード・色紙 (江口夜詩記念館/筆者撮影 2020.6)

この現状に、コロムビアは古關の解雇を考えた。しかし、古賀政男の強い反対により窮地を免れたのは「エール」で描かれていた通りである。
こんな物凄い作曲家・江口夜詩について、私はもっと知りたくなった。
そして調べているうちに、私がよく知っている曲の多くが江口の手によるものであることが分かり、驚きと嬉しさとが交差した。ミス・コロムビア(松原操)の大ファンである私は、「十九の春」こそ彼女の最高の作品だと信じて疑っていなかったが、この名曲も江口の手によるものだったのだ。冒頭の哀愁溢れるスチール・ギターを奏でているのは、松原によればディツク・ミネであるという。彼はこの楽器の名手で、レコード会社の枠を飛び越え、ギターを自転車の後ろに縛り付けて様々なレコーディングに参加していた。私が敬愛してやまない高峰三枝子の初レコーディング「螢の光」におけるデイツクの見事な間奏も、懐かしく思い出される。そんな江口の出身地が岐阜県・大垣市のという事実にも、私は驚いた。私事で恐縮だが、大垣は私の両親の故郷である。

江口の出生地・大垣市上石津町には日本昭和音楽村という施設があり、江口夜詩記念館が併設されているという。ここなら日帰りで行って来れる場所だ。
6月初旬、私は「江口夜詩記念館」に電話をしてみた。
「古關裕而について調べるうちに、江口夜詩さんについて知りたくなりました。記念館は今やってらっしゃいますか?」
突然の電話にもかかわらず、担当者のYさんは親切に対応してくださった。
「コロナの影響で、5月いっぱいまで閉館していたのですが、6月から少しづつ開けようと思っています」
「それでは近いうちに是非一度お訪ねしたいと思います。ところで今NHKの「エール」で古關さんがたいそう話題になっていますが、NHKから江口さんについて何か問い合わせ等はありましたか?」
「それが・・・私共も少しは期待していたのですが、残念ながら無いんですよ」
限られた放映期間では、NHKとしてもやはり的を絞る必要があるのだろうか。
お礼をい言い改めて地図を見ると、大垣の中心地から遥か離れ、関ヶ原の南26キロの養老山脈の裏側あたりだ。なぜここが大垣なの?
さらに調べるうちに、江口が出生した明治36年頃の当地は岐阜県養老郡時村といい、上石津町を経て、現在大垣市に編入という形になったようだ。
日本昭和音楽村・江口夜詩記念館は上石津町時代の平成6年にオープンしているので、すでに25年の月日が経っていることになる。
私はこれまで全国のいろいろな作曲家やアーチストの記念館を訪ねて来たが、共通して感ずるのは「月日の流れ」による記憶の衰退と、施設そのものの風化であった。
作曲家がまだ人々の記憶に新しいうちは訪れる人もいるだろうが、どうしても時の流れによってその作曲家も過去の人となり忘れ去られ、施設の活動も衰退して行かざるを得ないように見える。そうしたリスクを回避するため、それぞれの記念館は連携していろいろな企画の立案・運営の強化をはかっておられるのだろう。
数日後、私は江口夜詩記念館に向かい、ハンドルを切った。(続く)

(閑話休題) ここまで書いた後「江口夜詩」で検索したところ、noteに辻田真佐憲氏の秀逸な江口夜詩記念館訪問レポートがあり、驚くと共に感銘を受けた。そして氏のような年代の方が、江口夜詩に関心を持たれた詳しい経緯を知りたくなった。(因みに私は団塊世代である)あの古関裕而も「エール」で取り上げられる前は、ほぼ忘れられた作曲家になりかけていた。最近あるケアハウスを訪れたところ、カラオケのレパートリーに古賀政男が皆無なのに驚いた。(最近のお年寄りのカラオケのレパートリーは「上を向いて歩こう」以降だという。やれやれ!)  古賀のライバルを自認していた江口夜詩位の作曲家ならば、現代では忘れられて当然なのだろうか?いや違う!決してそんな事はないはずだ。日本人は過去の文化を忘れ過ぎだと思う。良いものは皆で残さなければ…

江口夜詩の生涯HP (現在工事中)





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?