愛でもなく恋でもなく、そして死について

君を幸せにできない理由を考える
君の笑顔は見たいけど
その笑顔を曇らせたくなかった

僕は臆病な自分が可愛くて
いつも気づかぬふりをする

愛を語るには幼く
恋をするには老い過ぎた

送る気もない君への手紙を書く
愛でもなく恋でもない文字の羅列を


ふと、初恋を思い出した。
あれは私が小学校の4年生ぐらいだっただろうか。
1つ学年が上の女子だった。
背が高くてドッジボールが得意で、なによりも笑顔が素敵な人だったと記憶している。
正直、もう名前以外の記憶があやふやだ。
私より高かった彼女の背を、今では追い越しているんだろうななどと考えていた。

身体ばかり大きくなってしまった私を我ながら憐れんでしまう。
結局、あの時『好きだ』という気持ちを直接伝えることはできなかった。
大人になるのは簡単だ。
ただ時が過ぎれば、勝手に大人として扱われるようになる。
本当に難しいのは、どういった大人になるかだ。
立派な大人という曖昧な表現を自分なりの具体性を持たせた上で、どんな大人になるか。
いや、もっと突っ込んで言葉にするなら、どう生きるかとでも言えばいいか。

私は一生懸命に生きているのか。
必死になれているのか。
つい、自分へ問いかけてしまう。

結局、私は自分可愛さで逃げるだけの日々を送っている。
それを否定する気はない。
ただ、これでいいのかとも考えてしまう。

私は年齢的にも、そろそろ自分の人生をどうしていくかを固めねばならない。
それはわかっているのだ。

だが、私は終わりしか見ていない。
どこまでも終わりを見据えているのだ。

『すべてがFになる』という小説をご存知だろうか。
人間は死に恐怖するのではない。
人間は死に至る生に恐怖するのだ。
死を前にして感じる痛み、苦しみ、恐怖は生きているからこそ感じるものであり、それは生ゆえのものだという。
ゆえに、人間は死を直接的に恐怖しているわけではない。
たしか、私の記憶が正しければ、上記のような内容を登場人物が述べていた。

この考えに触れた時、急に視界がクリアになった気がした。

それが良かったか悪かったかは判断の分かれるところである。
また、いつか機会があれば死生観について語りたい。
眠気が強くなってきたので、今日はここまでとしよう。
おやすみなさい。

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