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山菜夜話7 ソデコ

ソデコは、本来はシオデという名称で一般には知られている。山アスパラガスという異名を授かっていて、見た目の雰囲気と味わいがよく似ているという。ソデコという名称もまた、シオデとタチシオデという、よく似たグループをひとまとめにした集合に対しての呼び名であるが、山アスパラガスという異名は、本物のシオデのみにこそふさわしく思われる。残念ながら、私は、山アスパラガスの異名を持った本物のシオデの姿を見たことはない。私がフィールドとしている山には、この本物のシオデという種類は自生せず、近縁のタチシオデのみが生育しているため、ここで記事として取り上げるソデコという山菜は、もっぱらタチシオデのことである。シオデをソデコと呼ぶようになったいきさつは、東北人ならばある程度、予想のつく人もいるであろうか。シオデという名称に、東北方言特有のコという接尾辞がついてシオデッコ、さらに訛りが強くなってショデッコ、ソデコと変化していったのではないかと想像している。秋田県ではさらに転訛し、女性の名前のような響きのヒデコとなるのは、女好きをうそぶく秋田人の面目躍如といったところであろうか。

ソデコ収穫1

タチシオデの山菜としての魅力は、たおやかな、やさしい甘みである。メインディッシュの天ぷらなどを味わう前に、お通しのようにしてこっそり愉しむのが、ソデコのためにもよいと思う。一本ずつではさすがに味のパンチが弱いので、穂先の方はまとめて口に運んでしまう。生醤油か醤油マヨネーズをつけるが、穂先がたっぷりと醤油をため込むことが多いので、思わず醤油びたしになってしまわぬように意識して醤油を切る。束ねて味わえば、しゃくしゃくとした食感が、骨から伝わって耳に心地よい。やがて、ソデコの中の水分がしみ出してきて、ほどよく醤油の風味を薄めたころに、ほのかな甘みがやってくる。砂糖のようにべたつく甘さではなく、すっきりとした奥ゆかしい甘味だ。茎の方には歯ごたえもあり、一本ずつ食べることにも堪えうる太さ。根元の方へ至るにつれて青くささも少し出てくるが、やさしい甘みもふくらみを増す。ほんの少しだけ醤油をたらし、あるいはマヨネーズをちょい付けし、ソデコ自身の甘味の方を愉しむように心掛ける。天ぷらの油で疲れてしまった胃袋を、そっといたわる食べ終わりの一皿としても丁度よい。

ソデコ収穫2

筆先のような葉のすぼまりと、愛らしい花蕾の粒、ロココ調を思わせる上品な巻きひげなどが特徴で、シオデよりもタチシオデの方が、か細くか弱くたおやかである。風でさえも、その存在に気づかずに、思わず吹き抜けてしまうようで、繊細・華奢な草姿は、風に揺らされることもなく、すーっと天に抜けていくように立っている。最盛期のソデコの丘に光が差しこめば、それまで見えていなかったソデコのラインが、幾本も立ち現れては光と競って伸びあがり、幽玄きわまりない世界に迷い込んだような気分になる。このソデコの丘は、いったいどんな特別な意味を持たされた丘なのであろう。幾筋ものタチシオデが、天に向かって伸びている。いや、天からタチシオデの列が、光のように降り注いでいるのだろうか。天界の住人たちがこの大地を吊っている、その見てはいけない吊るしの糸の先端を、私は今、眼にしているのであろうか。天動説でも地動説でもないような大地が、ソデコに吊られて、私を、私たちを乗せたまま、静かに時を重ねていく。不動のはずの大地の上に立ちつつも、どこか浮いているかのような心細さが芽生え、ふらり二、三歩よろめいてしまう。私を乗せているこの不動のはずの大地は、いつかソデコの糸を断ち切って、ついに落下を始めるだろうか。自生しているクルマバツクバネソウが眼に入れば、どこやら時計の秒針が動いているかの錯覚をおぼえ、焦燥感に駆られてしまう。いつかソデコの糸の切れる、そのタイムリミットを正確に測り続ける時限つきの時計が、このソデコの丘には備え付けられていたというのか。いや、もう既に我々は、落体の上にともにあって、落ちていくものの感覚に気づけていないだけであろうか。

クルマバツクバネソウ1

ソデコの林立

このソデコの丘は、いったいどんな特別な意味を持たされた丘なのであろう。幾筋ものタチシオデが、天に向かって伸びている。いや、天からタチシオデの列が、光のように降り注いでいるのだろうか。それは、この世の哀しみや憤りやつらさから、人間を解き放つための、仏の慈悲の蜘蛛の糸でもあっただろうか。幾本もの蜘蛛の糸が、天界よりこの地上に垂れ下がる。その救いの現場に、自分は遭遇してしまったというのであろうか。芥川龍之介の小説ならば、天上から垂れてくる蜘蛛の糸はたったの一本だけであったが、ここでは無数に垂れている。それだけの数の救いがあるのか、はたまた、それだけの数の地獄があるのか、この世は一体どちらであろうか。無粋なことに、自分は今、その蜘蛛の糸を折り採っている。天界にのぼれるかもしれない、その絶好の機会を、自らわざわざ摘み取っている。その愚かにすぎる罪。林間、光が降り注いでも、我が身は、罪の大地の最底辺に、依然、押し込められたままである。

ソデコ


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