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山菜夜話8 アイコ

アイコの正式な呼び名はミヤマイラクサである。略してイラなどと呼ぶところもあるそうであるが、雑草としてよく見かける一般的なイラクサなどとはまったく異なる種類である。イラクサのイラとは、イラ蛾などと語源は同じで、刺毛のことを指している。秋田を中心として、東北ではアイコの呼び名で呼ばれることが多いのであるが、この厄介な刺毛を持つ厄介な山菜のことを、何故、わざわざ女性の名前である愛子などと名付けて呼んでいるのか、由来のほどは不明である。秋田では、ボンナやシドケと並ぶ、山菜の御三家であり、ことほどさように、秋田人はアイコを好む。「釣りキチ三平」の作者・矢口高雄氏は秋田県の出身であって、「釣りキチ三平」自体も秋田の山河を舞台としているのであるが、魚紳さんの恋のお相手が、愛子さんという名前であるのも、山菜のアイコからとっているであろうことは想像に難くない。

アイコ1

アイコの山菜としての魅力は、そのダシにある。私は、山菜の中でも、とみにアイコのダシが好きである。ほかにダシがおいしい特筆すべき山菜に、ニオサクというものがあるのだが、ダシの旨味で言ったらアイコの方に分があるだろうか。アイコはとにかくダシがうまい。夏の暑い時季に、豚肉とササダケとアイコとを、醤油仕立てで鍋で煮る。巷間、よく知られているネマガリタケとは収穫の時季が合わないので、ネマガリタケよりも細い種類のササダケを用いるのが、我が家の通例となっている。アイコの旬とササダケの旬とは、時季がちょうど重なるということもあるのだが、アイコとササダケとの相性がまた、格別によいのである。アイコは、かたい皮の部分とやわらかい芯の部分で食感が変わり、何とも言えないほくっとした食感となるのだが、そこに、ササダケのコキュッとした食感が加わり、アイコのほくっとした食感と相まって、お互いを見事に引き立てるのである。溶けだしたアイコのダシのスープをすすると、そのさわやかなコクに思わず恍惚となる。さわやかでありながらも、濃厚で味わい深く、昆布ダシのような旨味があり、しばらく余韻が口中にとどまって、とても幸せな気分にさせてくれる。

アイコを食するとき、通常は茎の部分のみを使って、葉の部分は捨ててしまうが、それがどうにももったいなく感じられて、どっさり捨てていた両親に、アイコの葉を、肉そぼろで煮ることを提案したということがあった。我が家ではこれまでも、沢アザミの葉を肉そぼろで煮る食べ方をしていたので、同じようには出来ないかと考えたわけである。アイコの葉をみじんに切り、食感のアクセントとして茎の部分を少量混ぜ、醤油仕立てで肉そぼろと煮る。結果、これが、ご飯のお供・酒のアテに最高の一品となった。アイコは、葉の部分もまたうまい。アイコの葉を捨てているような方には、無駄にせず食べてみることをお勧めする。

アイコ2

アイコは、生育する環境を割りと選り好みする山菜のようで、秋田では普通にほかの山菜に混じって収穫できていたはずであったが、津軽の山中ではまったくお目にかかれないという事態に陥ってしまったことがある。いや、正確にはまったく遭遇できなかったわけではない。滝や池塘などの観光地に赴いた折り、たくさんの観光客の往来する林道のすぐその脇に、まだ背の低いミズに混じって、立派なアイコが生えているのを見かけることはたびたびあった。ところが、山菜を追い求めて入る山では、とんと見かけることがないのである。どうにもこうにもわけがわからず、しばらく食卓にのぼることのなかったアイコであったが、知人から、津軽のシドケ山を教えていただくという幸運を得た。シドケとアイコは、同じ環境に生育することが多いと言うから、はじめは一縷の望みであったものの、それがまんまと功を奏したものである。そのシドケ山は、まさしくアイコ山でもあったのだ。敷き詰められたように生い茂るアイコを久しぶりに手折り、久しぶりに刺毛に刺され、久しぶりの痛みに欣喜雀躍、まったく山菜採りとは奇妙な人種である。多少、時季を逃していたため、伸びて硬さの出ていたアイコではあったが、やはりそのダシの深みは素晴らしく、鍋いっぱいのアイコのダシ汁をこれでもかというほど飲んだのであった。

アイコ3

アイコの刺毛には蟻酸があって、これに刺されるとわりと痛む。充分に注意をして手折るのだが、ふと忘れた頃にジグッとくる。やや後になっても、ズキズキとした指の痛みは呼び戻される。刺さった刺毛が指に残って、忘れた頃にまた悪さをするのである。忘れえぬ青春の頃の切なき思い出の痛みか、その一年越しの痛みも、半ばうれしいアイコ採りではある。アイコの刺毛に指を刺されながらも、一本ずつ丁寧に根元から折り採り袋に入れていく。軍手をしていても、時折、ジグッという痛みがやってくる。子供のころは、それが単純な痛み・痒みに過ぎなかったものの、思想的に大人になると、また別の感慨が湧きあがってくる。アイコの刺毛は、心を刺す。指先にちくりときて、この山中で、お前は採り過ぎてはいまいかと、自省の念を促している。あたりを見渡し、2~3歩進み、まだ手付かずの株があれば、そこでひとまずほっとする。アイコの刺毛は、理性の象徴であろうか。理性があるがために、人は日常、痛み・痒みを抱えて生きねばならぬ。立ち止まってあたりを見渡し、2~3歩進めば、また悩みは解消されるだろう。それもまた、理性の効能であろうか。そんなことを考えながら、またアイコにちくりと刺される。理性が、現実へと引き戻す。

アイコの刺毛に刺され、ズクズクと痛むその痛みは、どこか切ない痛みでもあり、古い思い出の痛みのようにも感じられる。指先から、幼き日の悔悟の念が浸透してきて、どろどろと溶け出してしまいそうな感覚に捕らわれる。アイコの持つ蟻酸によって溶け出して、いつかの思い出たちとひとつになれるのならば、それも悪いことではないのかもしれない。そうだ。思い出の中に溶け出して、思い出と同化するのも悪くはない。幼き頃、あの頃の、思い出という檻の中に、閉じ込められて生きることさえ、さほどの罰とも思われぬ。幼き日の、淡い後悔の罰を味わうことは、再び、ぬくもりの中へと還ることでもあるだろうか。永劫に回帰する思い出の牢獄の中に囚われて、なつかしさと後悔とを永劫に繰り返す、思い出の囚人。アイコの生い茂る薄暗い林の中で、指先に残り続ける痛みを確かめながら、私はアイコによって自分が溶かされていく夢を見る。もう二度と会えない人たちと、もう一度でも会うために、囚人の身分にその身を落とすのも、決して悪くはないだろう、などとうそぶきながら。

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