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山菜夜話2 ゼンマイ その2

ワラビとゼンマイとは同じシダ植物の仲間ではあるものの、その性格は著しく対照的だ。ワラビは煌々と照りつける太陽を好み、日差しの降り注ぐ日当たりのよい草原にひょっこり現れては、勢いに任せてその拳を振り上げる。ゼンマイは太陽を厭うかのように日陰に育ち、危うげな泥土の斜面に身を寄せたぐらいではまだ気が済まぬらしく、その姿をさらに煤けた綿毛で覆い隠している。ゼンマイとワラビとは、まるで陰と陽。この両者は、地面の下の生息域の境界で、無と有のせめぎあう混沌の中、対生成・対消滅を繰り返しているのではないかと、荒唐無稽にすぎることを思いめぐらしたりしている。

ゼンマイ巻き穂

ゼンマイ採りの山には、ツツドリの声の響きがよく似合う。薄暗がりに包まれた静寂の中、遠くからかすかに低く、ぽぽぽぽ、ぽぽぽぽ・・・と音がする。筒口を手で叩いたように、かすかに聴こえるその音は、ツツドリという鳥の啼き声である。沢筋から斜面をのぼり、傾斜のゆるいところに立つ。それまで支配的に耳に響いていた水の音も遠ざかったころに、低く囁くようなツツドリの声がしていたことにふと気がつく。空山、人を見ず、ただ筒鳥の響くを聴くのみだ。

ゼンマイ干し

子供のころ、家庭が貧しかったこともあり、毎年、父が保存食として干しゼンマイを蓄えていた。これは祖父の代からの、半ば習慣のようなもので、ゼンマイを干した香りが、我が家特有の匂いともなっていた。転々と棲み処を変えてきた一家ではあったが、ゼンマイの干し香が染みつくと、借家も我が家であるかの安堵感を得ていたし、ゼンマイの干し香を嗅げば、なんとなく落ち着いていられたものである。たとえいずこの土地に暮らそうとも、ゼンマイの干した匂いが漂いさえすれば、そこは我が家と無意識のうちにくつろげていたような気がしている。

沢の水

ゼンマイの巻き葉は、新葉を護るための綿毛に包まれている。綿毛は、白いものが見た目には最上だが、なかには黄色や茶色、黒色のものまである。祖父は、このゼンマイの綿毛を、毛鈎巻きに用いていた。昔気質の祖父は、釣り鈎以外の釣り具は買わず、一本の竹を切って釣り竿とし、馬の尾の毛を縒って釣り糸とし、ゼンマイの綿毛と鳥の羽毛で釣り鈎を飾り、川魚を釣っていた。もちろん、トンボなどの翅をむしって、餌釣りなどもしていたようだ。そのおかげか、歳をとって足腰が悪くなっても、家蠅を網で捕まえるのだけは、瞬速の素早さであった。そんな祖父が、釣りに行けなくなってからも愉しみにしていたのが、ゼンマイの綿毛を凧糸やミシン糸にまぶして胴巻きとし、拾ってきた鳥の羽毛を蓑毛としての、毛鈎巻きであった。釣りに行けなくなってからも、もはや釣ることのない毛鈎を巻き、釣りあげる労も得ない糸にとりつけ、釣り場に連れていけなくなった竿を振り、畳の一室、こたつの中から、部屋の反対隅に置いた火鉢の中に、毛鈎を飛ばし入れることを遊びとして愉しんでいた祖父であった。釣りは、鮒に始まり鮒に終わるという格言があるという。いやいやどうして、フナ以前にも釣りは存在する。釣りは、振り込み練習に始まり、振り込み練習に終わる。祖父を見ていると、それが正しい格言であるかのような気がしている。

ゼンマイの株

ゼンマイ採りは、その収量からしても保存性からしても、それ単独でマタギたちの生業として、歴史を通して成立していた。ゼンマイ採りは、マタギのような山人たちの、確かな生業になりえてきたものであった。山菜採りの本質は、狩りであると考えている。植物は、禽獣のように動きはしないが、山菜採りは、間違いなく狩りであると思うのだ。それは、空間を追い詰めていくような狩りではなく、時間を追い詰めていくという狩り。たとえ同じ場所で同じ植物に出逢おうとも、時季を逃してしまっていては、山菜という刹那的な存在を追い詰めることなど出来やしない。旬という一期一会の刹那を追い求める遊び、よろこび、それが山菜採りの本質ではないだろうか。

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