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山菜夜話6 ボンナ

ボンナとは、ヨブスマソウやイヌドウナ、カニコウモリなどのコウモリソウ属の仲間を、複数種類を寄せ集めた集合に対する総称であって、学名のように一対一の写像に与えられた名前というわけではない。ものすごく大雑把なくくりの呼び名である。だからなのか、その総称そのものにも土地ごとの揺らぎがあって、ボンナ、ホンナ、ドホナ、ドウナとかゆるやかな移り変わりを見せる。挙句の果てにはドッホイナなどという、しゃがみこんだ際に思わず出た掛け声を、隣で聞いていた人が植物の名前と勘違いして伝わったのではないかと疑うような、そんな呼び名も存在する。同じ東北であっても、津軽ではボンナと呼んでいたものが、秋田に入るとホンナと変わり、山形へ向かえばドホナとなる。それぞれがそれぞれに、歴史と愛着を育ててあげてしまっているだけに、いまさら統一できるようなものでもないようだ。いっそ、ペテロ、ピーター、ピョートルのようなものだと思ってしまえば、さして詮索する気も薄れてくれる。個人的には、津軽地方のボンナという呼び方が一番気に入っているだろうか。煩悩にまみれて山入りをする山菜採りには、煩悩の響きのボンナがふさわしかろう。煩悩から山に入り、山で命の理解を深め、個人的に悟るものを得て山を下りる。ボンナの字を梵とあらわせば、世界の真理を指し示す深淵なる響きともなる。

ボンナ1


ボンナにはいくつかの種類があって、入る山ごとに毛色の異なるボンナの種類を摘んでいることは知ってはいたが、種の同定をしたりなどといった、突き詰めて考えることはしないできている。一時期、ヨブスマソウとイヌドウナを区別して採集しようと目論んだこともあるにはあったが、ふた山めぐってやめてしまった。葉の付き方が、茎を抱き込むかそうでないか、茎に細かい毛があるのかどうか、そんなところで見分けるらしいが、正直、個体差や山の個性もあいまってどうにもよくはわからない。葉の裏が毛羽立つ種類があったかと思えば、茎が毛羽立って見える種もあり、無毛の茎も緑色だったり紫色だったりとやっぱりよくはわからない。せいぜい生えている毛の目立つボンナのことを、毛ホンナなどとあだ名をつけるように呼ぶくらいである。普段はボンナと呼んでいる私であるのに、毛がついたときはホンナである。秋田での生活も長かった私は、通常はボンナと濁点をつけて呼んでいるのに、毛がつくと濁点が消えてホンナと呼ぶようになってしまう、中途半端でよくわからない習慣がある。ちなみに秋田では、このホンナと、シドケ、アイコのことを山菜の御三家と呼んで珍重している。それにしても、カニコウモリという植物名はどうしたことか。まるで、仮面ライダーはゲルショッカーあたりの怪人の名前のようで、図鑑を見るたびにほくそえんでしまう。

ボンナ2


ボンナの茎の内部は空洞となっていて、手折った際に、ぽんっと小気味のよい音が鳴ることから、ボンナ・ホンナと呼ぶようになったといういわれがある。この話もまた、ドホナ名称の文化圏では、手折った際の音の鳴りは、ドホッという音に転訛して伝わっているのだが、いずれにしても、実際に納得のいくようなよい音にめぐりあうことは稀である。太くたくましく立派に育った個体に限って、ぽんっと小気味よく鳴るのがボンナの音であり、細めの個体からはそのような気持ちのよい音はしない。せいぜい、プチッといういじらしい音がするくらいである。手元でぽんっと気持ちよくボンナが鳴ったときには、指の先にもその音の振動がかすかに伝わり、太鼓の鳴る皮に手を置いたときのような感覚が残る。ゼンマイなどの硬質な茎を折り採ったときの、ダイレクトに伝わる感覚とはまた別の心地よさである。とは言え、ボンナの一番の魅力は、その音よりも芳香であろう。ボンナを一本一本折り採るごとに、その折り採ったボンナの断面を鼻先に近づけ、たぐいまれなる芳香を愉しみながら山を歩く。山歩きのつらさも不都合も、一本のボンナの爽やかな芳香がたちまちのうちに癒してくれる。たばこのように、街中でもボンナの芳香を愉しめる嗜好品が出たらいいのにと、山歩きをしながら思うのであるが、究極のマイナー意見であろうと理解している。

ボンナ3


ボンナをおいしくいただくのなら、やっぱりお浸しが一番である。さわやかな芳香と、食感のみずみずしさ。茎の空洞も、しゃりしゃりとした食感のよさに、ひとつの役割りを果たしているようで、太めのボンナなどは舌先で空洞を確かめながら味わってしまう。そして茎のその中空構造は、ボンナ自身の芳香を蓄える機能もあるのだろうか。山摘みしたとき周囲に立ち広がっていたあの芳香が、ひと噛みすれば、今度は口腔から鼻腔へと一斉に解き放たれる。バジルやパクチーといった海外もののハーブ類もよいけれども、日本の山にはボンナがある。そのことはもっと、巷間、広められて欲しいと思う。

ボンナ揺籃1


めったなことでは見かけることのない状況だが、ボンナの葉が、ある種の昆虫の揺籃に活用されていることがある。ボンナの葉がくるりと巻き込まれ、風に吹かれて揺れている様子は、普段、山菜採りの季節には見かけることのあまりない、昆虫たちの息吹きを感じられて、私の中にほほえましいという気持ちを呼び起こす。ふと気になって少し調べたことがあって、シロモンクロハマキという名前のハマキガという種類の昆虫が、ボンナの葉を揺籃として利用すると見かけたことがあった。掲載している写真に写る揺籃が、はたしてそれなのであろうか。ご存知の識者の方が、偶然にもこの記事を見かけて下さっていたら、ご教授いただければ幸いに思います。葉脈一本でわずかにぶらさがってる揺籃は、渓(たに)を渡るほんの少しの風で揺れる。ボンナの芳香に包まれて、揺籃の中のその虫は、涼やかなひとときばかりの住居を得る。なんてうらやましき幼虫であろうか。

ボンナ揺籃2


袋一杯に詰めたボンナの芳香に包まれて山を歩く。一本、ボンナを採るごとに、鼻先に折り口を持っていき、その清々しき香りに疲れを癒す。ときに、ボンナは、死の芳香を放っているものではないかと勘ぐってみる。生と死のはざまにある広がっているようなやすらぎの空間で、花吹雪のように煙のように漂っているのかもしれない、浄らかなる芳香。今、沢筋の暗き斜面には、山桜の花びらが無数に散り落ち、水音の鳴る遠くの滝壺には、飛沫を浴びてシドケの草姿が見えている。斜面を滑り落ちた我が足元には、かき集めてきた無数のボンナが、向きも揃わず投げ出されている。それを拾い集めもせず、しばし沢の音を聴いていると、敷き詰められたボンナから芳香が立ちのぼり、溪筋一体に広がっているような、恍惚とした気分となる。ボンナの香りの求めるがままに、世間には何の役にも立たぬこの身の肉を野晒して、むなしく白骨となるのもまた、山菜採りの浪漫でもあろうか。

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