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諏訪考 磯並社と小袋石様。

諏訪地域には、縄文由来の磐座もまた数多く点在している。
半ば忘れられたような存在ではあるものの、磯並四社(下馬社と山の神社を合わせて六社とも)や児玉石神社など、磐座が主役となっている神社もあって、諏訪大社以前の信仰の形を伝えている。
諏訪七石と呼ばれているそんな磐座群の中でも、もっとも大きな磐座が、磯並四社とともに祀られている小袋石様である。
茅野市の尖石様を先に見ていると、尖石様が、この小袋石様からインスピレーションを受けたレプリカだったのではないかとも思えてくる。

前宮から本宮側へ少し歩いたところ、守矢資料館のやや前宮寄りに、下馬沢川という川が流れている。この下馬沢川を辿って登って行った先にあるのが、磯並社群である。
磐船という台座石に乗った、ひときわ大きな祠が磯並社であり、そのあとに続く磯並社以外の三社の祠は、膝丈よりも低いようなとても小さな祠である。とても小さな祠ではあるが、山の斜面に造られている立地上、見上げるようにして登っていくため、来る者に対して威厳を示しているかのようで、どこか居住まいを正して向き合ってしまう、不思議な祠となっている。

磯並社の脇に延びている踏み固められた山道を登っていくと、次の祠・瀬神社が見えてくる。瀬神社からは急坂となり、裂け目のような涸れ沢を横に見ながら登れば、次の祠・穂股社である。穂股社から見上げれば次の祠・玉尾社が見えているが、玉尾社のすぐ横にあるとても大きな磐座が、小袋石様である。

小袋石様の伝承について調べるとき、諏訪信仰の核心点は、この小袋石様がここに存在したことだったのではなかったかとさえ思えてしまう。
洩矢神や御社宮司神や守屋山や建御名方神などの信仰も、はじめに小袋石様がここにあったればこその、信仰の上塗り(アップデート)であったのかもしれない。

混沌に、秩序を。
万物に、存在の赦しを。
これほどまでにスケールの大きい縄文の磐座信仰を、わたしは知らない。
何千年も前から(あるいは何万年も前から)、変わらずここに存在しているという事実。

山の斜面を踏みしめつつ登りながら、小袋石様に近づいていくそのときに、思わず口をついて「おかえりなさい」という言葉が出てしまっていた。
不思議なひとことではあったものの、咄嗟に、自分で自分自身に「ただいま」と返答してしまっていた。
自分自身に対して「おかえりなさい」とはどういうことか。

「おかえり」とは、言わされたものなのかもしれない。
自分の無意識になのか、はたまた大自然になのか、あえて主語は明確にしないでおこう。ひねくれた書き方になってしまうが、明確に記さない方が、体験の奥深さを演出できようというものだ。
自分が撮影した画像についても、なぜだか軽々しく載せる気になれずにいる。ネットで探せば、小袋石様の画像については簡単に見つかると思うので、気になる方がいればそちらでの検索をお願いしたい。

児玉石神社 疣石様
尖石遺跡 尖石様

日本列島は、南北にユーラシアプレートと北米プレートのぶつかり合う、フォッサマグナという断層帯が走っていて、その西側の境である糸魚川静岡構造線が、諏訪湖のあたりを通過している。
一方で、日本列島の東西には、南からのフィリピン海プレートに突き上げられる形で、中央構造線という断層帯が走っていて、それもまた、諏訪湖のあたりを通っているのだ。
日本列島は、諏訪という土地において、十字の形に交わっていると言える。

「風魔の小次郎」という漫画に出てくる十字剣という聖剣は、その名の通りに十字の形に大地を割る剣であったが、十字の形に交わるところの断層のずれは、中央に四角形の隙間のようなものを生み出してずれていく。
糸魚川静岡構造線と中央構造線の十字の交わりのずれが生み出した四角形の隙間、それこそがまさに諏訪湖なのである。

太古の昔、大規模な天変地異を伴って進行したであろう断層のずれは、大地の奥底に眠るマグマの眠りを呼び覚まし、諏訪湖南方にそびえている八ヶ岳連峰の大噴火をも促した。
霧ヶ峰付近・和田峠などでは美しい黒耀石を大量に産み出した熔岩活動ではあるものの、このときばかりは、恐るべき災害を諏訪地域にもたらしたであろう。

古代において八ヶ岳は、現代に見られるような複数の峰を擁する連峰としての山ではなくて、富士山と同じように、雄大な裾野から美しい稜線を描いて立ち上がる、ひとつの成層火山であった。
成層火山としては、富士山をも凌ぐ高さを有していたというけれども、噴火によって現代のような、刺々しい姿となったという。
そんな八ヶ岳成層火山の、上部一帯が吹き飛ぶほどの大爆発があったのだという。

世界が終末を迎えるのだと、文字を持たない人々は恐れおののいたであろう。

私の生まれた秋田には、十和田湖・田沢湖・八郎湖(八龍湖 八郎潟)を舞台とした三湖伝説という古い物語があって、十和田火山の噴火と土石流による大災害を、八郎太郎・辰子姫・青龍南祖坊の戦いに仮託する形で、黙示文学的に語られる。
子供のころに見聞きした三湖伝説のイメージのせいか、諏訪のこの大災害が、いつか見たもののようにも感じられてしまう。
まだ文字というものを持たなかったであろう諏訪の縄文の民は、その黙示文学的な破滅のさまを、きっと口伝で語り継いでいたであろう。

そんな八ヶ岳成層火山の大噴火のさなか、上空を、一個の岩の塊が飛んでいった。夜であれば、それは流星にでも見えたであろうか。
その岩の塊は、なんと、糸魚川静岡構造線と中央構造線の交わりである、大地のずれを生じさせていた裂け目のポイントに、どかっと落ちたのである。
「寸分違わず」と、現代の識者は言う。
その岩の落下とともに、大地の裂け目の活動は止まったのだと、有史以前の人類は受け取ったであろうか。
世界の崩壊を食いとどめた岩、万物の終焉を防ぎとどめた岩、大地の抑え、大地の鎮め、その磐座こそが「小袋石様」なのである。
今でも、小袋石様の直下には、中央構造線と思われる大地の裂け目が存在している。

真実なのか、眉唾なのか、科学的な知見はさて置いておくとして、その言い伝えこそが、人々を諏訪に引き付ける、ある種の引力となったことであろう。これが、諏訪という地域における信仰の特殊性と、その原点であろうかと思われる。
八百万神も、石棒信仰も、半蛙神も、龍蛇神も、神格神も、現人神も、すべて呑み込んでひとつにまとめ上げてしまうほどの信仰のエネルギー。
小袋石様がその原点だと言われれば、わたしは納得してしまうであろう。


参考までに。


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