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諏訪考 太陽と北極星(~津軽考)。

思うに、諏訪大社の上社・下社には、それぞれ、建御名方神・八坂刀売神以前に、祀られていた夫婦神があったのではなかろうかと考えさせられる。
どうも思考に飛躍のある内容であると感じたら、いつものように、少しお伽話のように読んで楽しんでいただければと思う。
漫画作品の設定のように読んでいただけたのならば、なるほど美しいなと思っていただけるのかもしれないので、無駄話にもお付き合いいただければ幸いである。

かつて諏訪湖両岸に祀られていた二柱の夫婦の神は、物部氏の祖神ともされる太陽神・饒速日命と、その妃神だったのではなかろうかと考えてみる。
諏訪湖の南北に、最初に祀られていた神こそが、饒速日命と瀬織津姫であったとしたらどうだろうか。
上社前宮に祀られていたのは、そもそも、物部の祖神である太陽神・饒速日命であり、石神(シャクジン)ミシャグジ信仰とは、縄文由来の信仰と、物部系の信仰が混淆したものだったのかもしれない。
物部守屋神社の本殿下には、石棒(陽石 男石)が埋まっているともいう。
石神ミシャグジ神と混淆した太陽神・饒速日命の坐す石の宮と、白蛇ソソウ神と混淆した水の龍神・瀬織津姫の坐す木の宮、その間に横たわる諏訪湖の水鏡。
どうしてこうも引き離されたものか、石の宮から木の宮へ、辿り着くにはあまりに大きな妨げが、真ん中に横たわっている。


諏訪湖と天竜川によって形成される図形が、北斗七星の柄杓の形に似ていることから、天竜川は北斗七星信仰とも結びつけられると聞いたことがある。
天竜川の女神である瀬織津姫は、北斗七星信仰とも結びついているのだろう。
そのことは、諏訪地域のみならず、信州各地に散見される北斗七星信仰の存在を、一気に解決するとも言える。
諏訪市の北斗神社、上田市別所の北向観音、上田市武石の妙見寺など、信州には、北斗七星を意識している社寺も多い。
北向観音は、南向きの善光寺と対を為していて、その本堂である観音堂は北向きに善光寺と向かい合っているが、そのもともとの由縁は、北斗七星を祀るための向きとされている。
そのほかには、生島足島神社が北向きであるとされているのも、実は意味のあることなのかもしれない。
諏訪大社の御柱祭や、善光寺の御開帳など、信州の祭りに7年区切りが多いことも、北斗七星信仰の影響が大きいからだとも囁かれている。
諏訪地域に点在する七石・七木といったものが、七という数字で統一されていることも、北斗七星信仰の影響だとすれば、七星信仰は想像よりもかなり古いものなのかもしれない。
佐久市で生まれた武論尊氏が「北斗の拳」の原作者になることも、長野市の有名なきのこ栽培のメーカーがホクトを名乗るのも、もはや必然の一部なのだろうか。
ひょっとすると信州人の細胞の中には、知らずのうちに、過去の北斗七星信仰の記憶が刷り込まれているものなのかもしれない。


北辰妙見菩薩信仰は、古墳時代も終わるころ、渡来人たちによってもたらされたものであると推測されているものらしい。
インド仏教に、中国の道教が混淆して生まれた信仰であるとされているからである。
わたしとしては、北斗七星信仰は、海人族が信州に持ち込んだスターナビゲーション由来のものかと推測していた時期があったので、少しがっかりしてしまった。
縄文の航海民が、簡素な丸木舟にその身をゆだね、星を頼りに遠洋航海に乗り出していったロマンを夢想していたからだ。
スターナビゲーションとは、古代ポリネシアの航海技術を現代に蘇らせたもので、北極星(北辰)などを目印とした遠洋航海技術のことである。
古代ポリネシア以前の海洋民族であるラピタ人の土器と、日本列島の縄文土器が似ているという説にも、興味が惹かれるものがある。
古代の海洋民族は、我々のあずかり知らぬ方法で、現代人が想像もしない遠方にまで、交易や植民に及んでいたのかもしれない。
そうであってみれば、丸木舟ひとつで大海原を旅していた縄文人たちが、北極星を目印にして自在に航海をしていたとしても、なんら不思議ではない。
縄文の海の民であれば、菩薩という宗教概念の大陸からの輸入以前に、北極星や北斗七星を信仰していたとしてもなんの不思議もないのではないかと、今でも思っているのである。


星以外に見上げる光のなかった古代、そもそも内地の縄文人たちにとっても、北斗七星信仰は身近なものだったのかもしれないとも思う。
わたしの育った津軽の土地も、縄文文化の奥深いところであるが、ここでも北斗七星信仰は歴史の裏に隠れて存在していて、津軽の七つの神社は北斗七星の形に並んでいる。
征夷大将軍・坂上田村麻呂によってそのように配置されたという伝承があるものの、津軽や東北の民は、田村麻呂や八幡太郎にかこつけて、古代の信仰を存続させようとしていた節があるので、わたしは、津軽の北斗七星信仰は田村麻呂以前の信仰に遡るのではないかと、うっすらと考えている。
猿賀神社など、表向きは田村麻呂以前の蝦夷征伐の田道将軍を祭っているが、そもそも、猿賀石という磐座を密かに守り続けている伝承を持つ。
岩木山神社の境内の隅には、白雲神社という白蛇を祀る祠があって、きっとこちらの歴史の方が、岩木山神社本殿よりも古いのだろうと思われる。
津軽の神社は、縄文由来の信仰と聖地の上に、上書きされた神社であろうと思うのだ。
縄文時代から崇められていたものの上に、神道や仏教が、上塗りをかけて見えなくしていったものは、想像よりも多いのではないかと考えている。
どんなに厚く上塗りをかけても、もともとの彩色の鮮やかさで、縄文のカラーをとても覆い隠せない土地、それが諏訪であり津軽であるとも思えてくる。


少し話題を天文の方へと移そう。
北極星というものは、役割に付けられた名前のようなものであって、単独の恒星や惑星について指し示す固有名詞ではない。
北極星と呼ばれた星が受け持っているその役割は、長い年月をかけて、星々の間を持ち回りで引き継がれている。
地球の地軸の傾きから算出すると、今からおよそ1万2000年前の縄文時代の始まり、縄文海進のころには、北極星は、現在の仔熊座にあるポラリスではなく、琴座のベガ、つまりは「織姫星」であったという説がある。
北極星を崇める北辰信仰も、北斗七星を崇める妙見信仰も、始まりが縄文時代にあるのであれば、すべてはこの「織姫星」に収束していくような気がしてくる。
天竜川の女神である瀬織津姫は、北斗七星信仰とも結びつくような気がしていた。
縄文時代、太陽信仰と対になっていたのは、月ではなくて、むしろ北極星信仰の方であったのかもしれない。
そして、それを育んだものは、縄文時代から活躍していた宗像族や安曇族などの海人族ではなかったろうかと考える。
先に述べたように、ポリネシアに残る遠洋航海技術スターナビゲーションは、北極星を目印とした遠洋航海法である。
縄文の大海原をゆくとき、夜の洋上で信頼できるものは、星空を動く月ではなく、動かぬ北極星イコール織姫星ベガだったのではなかったろうか。
織姫星は、縄文の北極星である。


翻って、諏訪湖では、龍のごとき御神渡りを伴って、上社と下社の夫婦神は再会を果たす。まるでそれは、織姫と彦星の再会のようでもある。
祓戸大神の役割を説明する大祓の詞の中に、「たぎつ」という言葉が出てくることから、瀬織津姫は、宗像三女神の一柱・湍津(タギツ)姫と同一視されることがある。
宗像三女神とは、沖津宮・中津宮・辺津宮と、三社ある宗像大社に祀られている女神であるが、そのうちのひとつ中津宮の境内に、織姫神社と彦星神社が向かい合わせて建てられているということを、最近知るに至った。
中津宮に祀られている女神は、その湍津姫当人である。
やはり、織姫とはひとつのキーワードであろうかとも思う。
物部の祖とされる饒速日命は、瀬織津姫と同一視される宗像の女神と婚姻関係をもっているが、出雲の大国主神もまた、宗像の女神と婚姻関係があり、宗像の女神との間に産まれているのが、事代主神である。
建御名方神は、大国主神と高志(越)の女神との間に産まれたのであるが、その割りには名前の響きがミナカタと、ムナカタと響きにおいて非常に近い。安曇と泉と出雲もまた、その名称の響きが少しずつスライドしているかのように似通っている。
妃神の八坂刀売神は、安曇氏系の綿津見三女神の一柱であるが、安曇族も宗像族も、北九州をその活動領域とした兄弟筋の海人族であるとも言われ、このあたり何かを隠匿でもするかのように、非常に複雑に入り組んでいるかのようにも思えてくる。その隠匿と封印の先に、宗像三女神や瀬織津姫が存在しているのだろうか。

瀬織津姫は、織姫でもあろうか。
諏訪湖結氷の氷を割って、封印され消されたはずの男女の神が、湖上で邂逅するとなれば、それはまさしく織姫・彦星の再会のようでもある。
建御名方神と八坂刀売神の以前に、諏訪湖の南北に祀られていたのは、饒速日命と瀬織津姫ではなかったか。
もしそうであるならば、あまりに美しい邂逅ではないかと思いたち、書き留めずにはいられなかった。



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