見出し画像

山菜夜話3 ワラビ

タニウツギ

タニウツギの花が咲くと、ワラビ採りの盛りである。ワラビ野の入り口に踏み入れば、妙琴蝉が腹を震わせて鳴く声が、あたり一帯を支配するかのように響いている。妙琴蝉とは、エゾハルゼミのことである。「みょーきん、みょーきん」と鳴くので、妙琴蝉の字を当てられているのだが、幾百幾千の群れになって鳴かれてしまうと、のどかに「みょーきん」などとは聴こえて来ない。その声は、眼にしている風景の中に溶け込んでしまい、もはや音を見ているのか、森を聴いているのか、五感が混同してしまったような心持ちになる。タニウツギの赤い花を横目に、藪をかき分けてワラビ野の中に進めば、そのタニウツギの赤と競うように、今度はノダフジがその薄紫色の花序を上空から降らせているのが目に入る。野の奥の方ではウグイスが可憐にさえずり、いよいよワラビ採りの始まりを告げる。花札の図案としては「梅に鶯」「藤に不如帰」という取り合わせとなっているものの、こと、ワラビ採りをしていると「藤に鶯」という取り合わせこそがしっくりくるように感じている。

ノダフジ

ワラビには、紫ワラビと青ワラビとがある。学問上の分類群ではなく、ワラビ採りたちが、自己満足の中で呼び分けている名称である。山菜に親しんだことがない向きにとってみれば、青ワラビと言った方が、青葉の「あお」を連想させて、健康的に聞こえるかもしれないが、ワラビに関しては、紫ワラビの方がずっと健康的である。黒ずんだ紫色のワラビの方が、ずっと肉感的であり、孤高の趣きで野に根差している。ワラビ採りにとっては、紫ワラビこそが本物のワラビである。頻繁に山菜採りが訪れる場所のワラビは、細くて固い青ワラビが主体となっているから、紫ワラビを手に入れるには、それなりに苦労の手順を踏まなければならない。それこそが、ワラビ採りの娯楽性ともなっていよう。よいワラビは、薮の中。こんもり積った枯れ萱の中、ノイバラの絡みつく茨の下、ネマガリタケの笹薮の奥・・・。少し前に山入りしたはずの先行者が発見しきれなかった、紫色の薮ワラビを見つけるとき、ワラビ採りとしての優越感を感じて、ひとりほくそ笑むのである。ときには、通り過ぎてきた我が足元に、忽然としてワラビが立っていることもある。隠れようとする意志もなく、ただそこに立っているだけであるのに、ものの見事に隠れている。これは、忍びの術でいうところの、観音隠れに違いないと、足元のワラビを摘みながら考える。眼を閉じて、無作為に、ただ棒立ちになりながら、そこに広がる闇に紛れる。ワラビは観音隠れの達人である。ただそこに立っているだけであるのに、周りの景色に隠れ込む。ワラビを見つけるのなら、ワラビ殻を探せ、という格言めいた言葉もよく聞くものの、ワラビ殻は、ワラビを採ったあとになって気が付くことが多いように思う。ワラビを見つけてその場に行き、手折ったあとでワラビ殻を発見し、それならばとその周辺を探るのである。ワラビ殻を見つけだすための視力よりも、そこによいワラビがありそうだと感ずる、直感の力を磨いた方が、ワラビ採りにはよいように思う。

ワラビ隠れ

ワラビ採りをしていると、蟻との戦いも避けられない。ワラビは、自身の穂の付け根にある花外蜜腺という窪みから蜜を出し、わざわざ蟻を寄せている。食害から身を守るためであるとも言われているが、蟻以外にワラビの穂に群がる虫というものを、まだ見たことがないので、何とも言えない。成葉には、ワラビツメナシアブラムシや、ワラビハベリマキタマバエがつくことがあると言うので、随分早い段階からの予防策であるかもしれない。いずれにしても、蟻と一緒にワラビを袋の中に入れてしまっては、家の中にまで相当数の蟻を迎え入れることに繋がるので、ワラビ穂に群がる蟻をなるべく払って袋に入れる。慣れてくると、手折ったときの衝撃で、群がり付いた蟻たちを、跳ねのけることが出来るようになる。

ワラビの萱場

ワラビが育つ萱場には、陽の光を蓄えた仄暖かきぬくもりがあって、膝を付いて身を投げ出すと、得も言われぬ心境となる。初夏の太陽の下で、枯れ萱のぬくもりに包まれ、麓をゆく風を感じ、握り飯を頬張る。風が通り過ぎ、木漏れ日の光を揺らし、葉擦れの音の奥ではウグイスがさえずり、縄張りが気にかかるのか上品に騒ぎ立てている。遠景の山は雄大で、自分はその麓に無遠慮に寝そべっている。言うべきこともなくなってしまい、雲の流れるさまをしばしのあいだ見入っている。思想上の桃源郷など、なくてももはや構わない。

ワラビ収穫

ワラビは地下にある茎から、大地一面にその穂を出現させる。広大なワラビ野を歩き回り、一本一本のワラビを採りながら歩いていると、いつの間にか自分は、ワラビの地下茎の上を歩かされているのではないかという、錯覚に捕らわれる。釈尊の掌の上にのたうつ孫悟空。すべてはワラビの上で踊らされている、愚かな人間の営み。ワラビの地下茎は、一体どこまで広がっているのだろうか。山菜採りの眼には、自分の足元のワラビの広がりなど想像もつかない。ワラビの地下茎の上に、大陸が乗っているとしたらどうだろう?地球ひとつが、丸ごとワラビの地下茎の上にあるとしたら?ワラビが枯れるとき、この大地は沈み、この星は枯れるのだ。ワラビが滅びぬよう、ほかの山菜採りの眼を逃れて大きく葉を広げそうなワラビの穂をわざと残し、ワラビ採りの一日を終える。この星は枯れぬだろうか?この大地は沈まぬだろうか?真午の太陽を仰ぎ見て、自らの人生の思いもかけない短さに気づき、悲しく安堵するのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?