信州以外にはあまり知られていない建御名方神の痕跡④塩田平

【塩田平】
松代に拠点を置いてしばらくとどまった建御名方神の勢力は、千曲川を遡上したのか、地蔵峠を越えて南下したのか、上田・塩田平の方面へとその足跡を伸ばしている。上田市真田町にも出早雄命を祀る神社が所在しているので、松代から上田一帯の防衛を任されたのが、出早雄命ということであったかもしれない。
北信濃を抑える勢力にとっては、地蔵峠はとても重要な位置を占めることだろう。地蔵峠へと向かう道が通っているのは、砥石城と真田本城とのあいだであったから、戦国時代には、砥石城周辺が争奪戦の舞台となった。
村上氏と真田氏が、砥石城をめぐる攻防にこだわっていたのは、ここを抑えれば、地蔵峠を越えて善光寺平まで至る道を自由に通行できるようになるからである。殊に、村上氏にとって、砥石城とは、生命線のひとつであったろう。もし砥石城を明け渡せば、山岳ゲリラ戦お手の物の真田氏に、自由に松代方面へと兵を差し向けられて、たちまち背後を突かれることになるという危険性があった。
地蔵峠とはそのような道であったから、建御名方神の時代にも重要な位置を占めていたのかもしれない。松代から地蔵峠を越えることで辿り着く真田町のあたりは、防衛の最前線・松代地域の後背地として、攻めるに難き補給基地のような存在となっていたのかもしれない。
 

上田市の中心となる地域は、三つに分けて考えるとわかりやすいと思っている。ひとつめは、千曲川水系の扇状地が広がる南側の塩田地区。ここには生島足島神社や別所温泉などがある。ふたつめは、河岸段丘が刻まれて丘陵地の多い中央の上田地区。ここには上田城や信濃国分寺などがある。そしてみっつめ、山地のなかの傾斜地に営まれた北側の真田地区。ここには砥石城や真田本城などがある。これに、依田川流域の丸子・武石の両地域が加わって、現代の上田市を構成する。
真田町の山地が、建御名方神の勢力にとって生命線となる土地であったとすれば、千曲川流域の低地にひろがる塩田平の土着勢力は、必ず味方につけておきたい存在であったはずである。
もしも建御雷神側について蜂起する者が、塩田平にあったならば、背後をつかれ、補給路を断たれ、たちまち窮地に陥る事態ともなりかねない。塩田平の土着勢力との交渉は、建御名方神の勢力にとっては、死活問題でなったことだろう。
 
諏訪地域と並び立つように、上田地域の歴史もまた古い。おそらく縄文時代の昔から、人々はこの上田の土地を活発に行き交っていただろう。黒耀石の一大産地・和田峠をはさんで、南に諏訪、北に上田という位置関係を考えれば、塩田平の肥沃な大地が、手つかずのまま放置されることはなかったはずであろう。歴史の古さもまた、むべなるかな、である。
塩田平一帯には、このころには盛んに集落が営まれていて、生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神という在地勢力が、すでに相当の地盤を固めていた。現在では、生島足島神社に祀られている両大神であるが、かつては、すぐ近くの泥宮という神社の方にその真の拠点があったと言われている。
生島足島神社が、社殿内の土間(土地そのもの)を御神体として祀っているのに対して、泥宮神社は、泥を御神体として祀っているという。泥宮の正面には、過去に泥池と呼ばれていたという上窪池が、水面も静かに広がっている。水田の泥を崇拝するという意味で、弥生的な豪族の姿が浮かび上がる。
これ以外にも、上田市の周辺には、太陽(レイライン)信仰や、陽石(石棒)信仰など、特徴的な習俗が見られるが、それもこの時代の信仰に由来するものであるかもしれない。それらすべての信仰を複合して考えあわせたときには、猿田彦大神のような弥生の神の姿が浮かび上がるものの、あまり断定的には受け取らないようにしよう。
 

建御名方神と八坂刀売神の両神は、生島・足島の両大神に、なんとか味方に付いて欲しいと考えたのであろう。あるいは、中立の維持を求めたのかもしれないが、ふたり揃って、この両大神のもとを訪れる。
生島足島神社の境内は、北の神池の中に生島大神・足島大神を祀る本社が上宮としてあり、南に諏訪大社が下宮として建っているのだが、ここで執り行われる行事に、御籠り神事という特徴的な神事がある。
上宮の御籠殿に籠る生島大神・足島大神のもとへ、下宮の諏訪大社から、建御名方神が御神橋を渡って、米粥を運び献上するという神事である。
この神事が何を意味するのか、諸説さまざま存在しているようであるが、わたしが、まず最初に頭に思いついた景色は、三国志の三顧の礼であった。それまで何の策もなく流浪を重ねてきた劉備が、諸葛亮を軍師に迎える際に行なった三顧の礼。そのような意味合いの儀礼であったのかもしれない。
塩田平には特別大きな戦闘の痕跡もなく、生島足島の両大神は、その後もその勢力を維持していたようであるし、建御名方神は、なにごともなかったように、千曲川をさらにさかのぼって南下している。
南下していった先の佐久平に、激しい戦闘の爪痕が残されているのとは、まったく対照的である。
塩田平での日々は、建御名方神の勢力にとっては、比較的、平穏な日々であったであろう。嵐の前のなんとやらであったろうか。


ここで少し、話の舞台を善光寺平の方向へ戻そう。千曲川を上田市から北の方へ、坂城町、千曲市、そして川中島は篠ノ井のあたりへ。
北信・善光寺平方面から東信・塩田平方面へと国道18号を進んでいると、まるで門扉を閉ざしてくるかのように、切り立った断崖が右手より迫って見えてくるのが印象に残る。まるで、鼻息も荒く、こちら側に鼻腔を見せているかのように見えるのは、半過岩鼻の断崖である。
半過岩鼻の反対側には、塩尻岩鼻がそびえたち、切り立った両側の断崖が、まるで侵入者を撥ねつけるかのようであり、今にも扉が閉ざされそうで心もとなくなってくる。古代には本当に千曲川の流路の門扉は閉ざされていたようで、上田市のあたりは水をたたえこんで湖となっていたという。
場所はだいぶ離れてはいるものの、安曇平に伝わる泉小太郎の犀川開削伝説と同じように、千曲川にもまた、湖の水を堰き止めていたこの断崖を、泉小太郎が押し破ったとの伝説が残されている。同一の伝承を持つ一族の存在があったものか、単なるパクリであったのか。
塩田平の方には、泉小太郎とは別の伝承も残っていて、その伝承では、断崖を突き崩したのは、ねずみの食い破った小さな穴であったという。
千曲川に断崖がくびれ込んでくる狭隘部の北側、坂城町には、その断崖を食い破ったねずみを、鼠大明神として祀っている鼠神社が鎮座している。
鼠神社の周辺は宿場町として大きくなり、鼠宿という宿場名を持つなど、ねずみに対する愛着が深い町だ。特産品のお絞りうどんでも使用される辛味大根は、しっぽを伸ばして座るねずみを背後から見たような姿であり、ねずみ大根と呼ばれ親しまれている。
この鼠神社、本当の名前は、會地早雄神社ということであり、出早雄命の名を連想させるような名称となっているのが、たいへんに興味深い。
 

一方で、ねずみは、このあたり一帯のひとびとに悪さをしたのだという伝承も伝わっている。このねずみを退治するために、人々は一匹の猫を連れて来た。猫は、ねずみとの戦いの中で相打ちとなり、千曲川の流れに巻き込まれる。
その猫が祀られているというのが、長野市篠ノ井地区にある軻良根古(からねこ)神社であるという。軻良根古とは、唐猫であり、渡来人・帰化人を暗示していると言われている。
ねずみを退治するものの、相打ちとなった唐猫は、千曲川の激流に流されて、篠ノ井のあたりに流れ着いたのだという。渡来人としての唐猫が、そのような戦いに駆り出された相手とはいったい何者であったのか。
想像を逞しくするならば、ねずみとは、鼠神社こと會地早雄神社に祀られる出早雄命ではなかったかということになる。そして、「ねずみ」とは「あずみ」の転訛したものではなかったのか、との突飛な思いに駆られるのである。
かたや、安曇野の方では、仁科濫觴記の記述の中に、八面大王を盗賊集団として見下し、「ねずみ」と呼んでいた例が見受けられる。「あずみ」とゆかりがあるとも言われる八面大王のことを、「ねずみ」と呼ぶとは、考えてみれば、象徴的な言い換えであるのかもしれない。

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