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信州以外にはあまり知られていない建御名方神の痕跡②安曇平

【安曇平】
建御名方神の痕跡をめぐると言い切っておきながら、冒頭に取り上げる場所が安曇野となってしまったが、まったく見当違いの場所というわけでもないので、ひとつお許しいただきたい。
海人氏族たちは、船によって姫川をさかのぼり、分水嶺を越えて仁科三湖に至り、そこから逆に南へと流れだす高瀬川を下って、有明湖に辿り着いたことであろう。
古代には存在していたとされる有明湖は、現代ではもう干上がっていて、その名を有明湖のほとりにあったであろう信仰の山・有明山に残すのみである。おそらく九州の有明海からとられて名付けられたであろう「有明」であるが、湖がなくなってしまえば、まったく由来の意味をなさない山の名前としてだけ残っている形となっている。有明湖の湖畔にあったとされているのが有明山神社であり、周辺には有明古墳群が営まれていた。
高瀬川は流れ下って犀川に合流するが、その犀川をさらにさかのぼり、奈良井川・梓川の分岐点では、梓川に流路をとってさかのぼれば、やがて上高地へと辿り着く。その上高地から見上げることのできる穂高連峰に、海人氏族・安曇氏の祖神・穂高見(ほたかみ)命は天下ったという。
かつて岐阜県側に流れていた梓川の流路が、焼岳の噴火によって堰き止められた結果、安曇平に流れ込むようになったのが、縄文時代のことのようだから、梓川の上流に明神が降臨したという伝承は、この天変地異の記憶が関係しているのかもしれない。
ちなみに、穂高岳などの「穂高」であるが、歴史的には「ほたか」と読むのが正しいらしい。穂高神社も穂高見命も、正式にはともに「ほたか」である。「ほだか」の読み方は、登山家たちに慣用として用いられることが多いらしく、格調高く歌われる山岳歌「穂高よ、さらば」の歌詞が強く影響しているのかもしれない。
 

安曇野市穂高地区にある穂高神社里宮には、泉小太郎と犀龍の石像と碑文がある。泉小太郎と犀龍によって岩山が突き破られたことで、湿地に近い状態にあった安曇平の水が流れ出し、耕作地として開拓されたという伝承が今に残る。
犀龍によって開削された川だから、犀川(さいがわ)という名称なのだ。
泉小太郎と犀龍の民話は、安曇野開拓にまつわる伝承ということであり、泉小太郎は安曇族であるという。「いずみ」は「あずみ」の転訛したものであるということなのだ。
にわかに信じるのもどうかと思ったりしたものだが、「あずみ」と「いずみ」が同じものを指す場合の方が、腑に落ちる部分が多くなってくる。
ここまでくれば、あともうひと息で、「いずも」は「いずみ」の転訛したものであるとも言えそうである。三段論法を用いるならば、「あずみ」は「いずみ」で、なおかつ「いずも」となってしまう。
出雲国を構成していた住民が海人族で、出雲が海人族にとっての湊のひとつであったとすれば、出雲の大地から発掘されるものが少ないのも、至極当然のことなのかもしれない。
同じく海人氏族の「むなかた」も、ちょっとした転訛によって「みなかた」となり、海人氏族は、出雲から諏訪にやってきた建御名方神の名前とも繋がってくる。宗像三女神の一柱・田心(たごり)姫は、大国主神の娶った妻のひとりであるから、出雲と海人氏族との関係性は濃密なようだ。
同じ北九州の海域を拠点とし、安曇氏から分かれたと言われている宗像氏との、複雑な絡み合いが連想されて、古代海人族の歴史は奥が深い。
東北の北のはずれを生活圏としてきたわたしは、正直、遠く離れた九州の歴史は、とりあえずいいやなどと考えていた部分があったのだが、
信州の歴史に触れていると、どこまでも遠くへいざなわれるような気がして、どうにもそら恐ろしくなってくる。
 

建御名方神の妻とされる八坂刀売(やさかとめ)神は、伝承では海神・綿津見(わたつみ)神の娘ということであり、安曇族の祀る綿津見三女神のうちの一柱であるという。
そして、穂高岳に天下って安曇野を開拓したとされる穂高見命もまた、綿津見神の御子神であってみれば、穂高見命と八坂刀売神は、兄妹の関係ということなのであろうか。建御名方神にとって、穂高見命とは義兄というべき存在なのであろうか。興味は尽きない。
たいへん巨視的で、非常に大雑把な視点だけで考えれば、海人族集団が、なんとなく信州の北から南へと移動していったという事実が残る。
それは、同質の集団が何波にもわたり繰り返し訪れたのかもしれないし、ひとつの事象が分割されて伝えられたものなのかもしれない。その複合形の場合もあるだろう。
安曇氏の正式な安曇野への移住は、白村江の戦いにおいて新羅・唐連合軍に敗北を喫した安曇比羅夫のあとの時代だと言われている。蘇我氏の屯倉経営に携わって派遣されてきた者がそのまま定住したのだというが、歴史ロマンとしては若干拍子抜けのする説ではある。
わたしが海人族に抱いていたイメージは、ゴールドラッシュのようにヒスイを求め、トレジャーハンティングのように内陸探検に乗り出し、フロンティアスピリットよろしく開拓定住した姿であったから、役人のように任地に赴く姿などでは、どうにも拍子抜けしてしまう。
 

後年、安曇野の地において、盗賊集団として討伐されたという存在に、魏石鬼八面大王がいる。有明山神社からの山道を進んだところに魏石鬼の窟屋と呼ばれる遺跡があって、そこに立て籠もって反抗したと言われている。
最近では、「八面」の部分を「やめ」と読んで「八女」の大王とする説が、歴史ロマンと相まって支持されるようになってきている。
福岡県八女市は、有明山の名称の由来ともなった本物の有明海にほど近く、安曇氏や宗像氏との関りも深い土地柄であり、なによりも、筑紫国造磐井の乱が戦われた土地である。
物部麁鹿火によって鎮圧された筑紫国造磐井の乱から、落ち延びて逃れてきた磐井の血族が、この八面大王なのだという。
安曇氏の活躍は、奈良時代から平安初期のあたりに途絶えてしまうそうであるが、仁科氏によって討伐されたと伝えられる八面大王の乱こそが、安曇氏の没落を象徴する事件だったのかもしれない。

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