ひとは言葉によって言葉を乗り越えることが出来るか。

頭の中にわだかまりとして残り続ける負の符号の言葉の存在を打ち消すために、力強く心に響く言葉を求めて生きていた季節が確かにあった。
頭の中にわだかまる負の符号の言葉の存在を打ち消すために必要なのは、取り繕われた正の符号の言葉などではなく、懊悩の果てに紡ぎ出された負の符号の言葉なのではないかと漠然と考えていた。
マイナスの符号の数字に、いくらプラスの符号の数字を掛けあわせても、マイナスの符号は微動だにしない。
マイナスの符号を、プラスの符号に転じる唯一の方法は、同じようにマイナスの符号のついた数字を掛けあわせることだ。
よって、今でも心の奥底に声高らかに響くのは、悪魔めいた文学の中の言葉である。


ひとつには、ジョン・ミルトン著、「失楽園(パラダイスロスト)」に登場する、堕天使長ルーシファの言葉。
レジスタンス精神の象徴とも言える神話伝承の神々は多いけれども、唯一神に不平を抱き叛逆ののちに地獄に堕ちた堕天使長ルーシファ、正義に固執する性のあまり闘争を続け天界を追われた阿修羅王、国を譲らぬ戦いを続けて諏訪の地に辿り着いた建御名方神には、とても興味を惹かれるものがある。
このあたり、人生を諦めないという判断をしたときに、シンパシーを感じやすい人格神・霊的存在・文学的存在なのではなかろうかと思う。
ふたつめは、フリードリヒ・ニーチェの代表作、「ツァラトゥストラはこう言った」の中の言葉。
ニーチェとほぼ同じ時期に、太宰治にも出会っていたことから、その当時のわたしは、ニーチェによってもたらされた強烈な自己肯定と太宰によってもたらされた強烈な自己否定という、思想的乱高下の中に生きていたように思う。
そして、すこし毛色は変わってしまうけれども、聖飢魔Ⅱの楽曲「NEVER ENDING DARKNESS」も悪くない。


「一敗地に塗れたからといってそれがどうしたというのだ、すべてが失われたわけではない」
文庫の表紙に見えるこのフレーズが有名な、平井正穂氏による格調高い翻訳の「失楽園(パラダイスロスト)」。
今となっては結末なんて思い出せないくらい、適当な読み方をしていたのだけれども、当時は、ただひたすら、堕天使長ルーシファの言葉によって力を与えられていた。
「目を覚ますのだ!起き上がるのだ!さもなくば、永久に堕ちているがよい!」
唯一の神に叛逆して地獄へと堕とされた、堕天使長ルーシファの言葉によって立ち上がる力を得るとは、おまえもまた、悪魔に誘惑された者のひとりなのかと揶揄することなかれと願う。
「失楽園」作中のルーシファの言葉、それはおそらく、革命をあきらめきれない作者ミルトン本人の、傷ついた理想と情熱のほとばしりから出た血まみれの言葉。
クロムウェルの側近として清教徒革命の理想を掲げ、天のいと高きところにまで昇りつめ、そして、クロムウェルとともにミルトンは失墜した。
そんなミルトンの心の叫びを代弁するかのように、堕天使長ルーシファの言葉は生き生きとしていて、負の符号を跳ね除けて余りある力を持っている。
「地獄の高い王座についているわたしを、彼らが崇めているときでも、わたしはさらに深い奈落へと堕ち続けているのだ」
「失楽園」という堕天使を主役に据えた作品を著しながら、ミルトン自身もまた、堕ち続けているような感覚を抱いていたのかもしれないと思う。
地獄のいと高きところにありながら、わたしこそが、もっとも堕ちている。
ふいに中高生がそんな言葉を発しようものなら、昨今ならば中二病だと囁かれて終わってしまいそうだけれども、再び生きていく気力が得られるのならば、言葉に酔うのもまた救いではなかろうかと思う。


「神は死んだ」というフレーズがあまりにも有名な「ツァラトゥストラ」は、多用されているその比喩的表現を、自分の経験でもってひとつずつ読解しながら読み進めなければならない、魔性の読み物だと思う。
ニーチェの思想を曲解していた人物としては、かのヒトラーが有名だけれども、わたしの読解もまた、おそらくは、ヒトラーとまでは行かないまでも、まず間違いなく曲解の賜物である。
比喩的表現の多用によって構成される、ツァラトゥストラの言葉とそして文脈は、独学で読もうとするなら、曲解に次ぐ曲解の連続によって理解していくしかない。
それならば、あとから読んだニーチェ哲学の解説書が、読解の役に立ったのかと言われれば、申し訳ないけれども、「否、否、みたび否」ということになる。
曲解によって間違った解釈に辿り着く危険性はあるのだろうけれど、学問的に得られた理解は、自分の血と傷によって得られた理解と感動には遠く及ばないような気がする。
「血によって書かれた書物」とは、そういうもの。
認識とは、己という濾材を通してしか得ることの出来ない抽出物。
誤った認識もまた、個性であり独創性。
「わたしは奔流のほとりに立つ欄干である。わたしを掴める者は掴むがよい。だがわたしはあなたがたの松葉杖ではない。」
曲解に次ぐ曲解の果て、そんな言葉の存在にシビれ、意味不明に勇気づけられていたのも事実であるが、その言葉を自分が、欄干としていたか、はたまた松葉杖としてすがっていたかの判断もまた、曲解でしかない。
曲解することでしか理解し得ない自分自身と、曲解されることでしか理解され得ないツァラトゥストラと、最終的に得られる孤独感だけは、共通のものではなかったかと思う。
その孤独感において共鳴し、「ツァラトゥストラ」を読んでいたように、今では思えている。


「神は死んだ」
この言葉によって、わたしは自らの考え方に、はからずも得心することが出来ていたのかもしれない。
その当時のわたしは、幸運や祝福の象徴となる神の存在を消してしまいたかったのだろう。
人間万事塞翁が馬、幸運も不幸も、人生の総和では、取るに足らない誤差に過ぎないと思いたかった。
神の恩寵というものは、この宇宙の秩序を乱すもののように思え、聞き分けのない大衆をなだめるために、何者かが考案した甘い囁きのように思えた。
死が、すべての者に公平に訪れるように、運命は、死神のように忍び寄るものでなければならない。
だからこそ、神は死んでいなければならなかったのだろう。


「NEVER ENDING DARKNESS」は、聖飢魔Ⅱのギタリストのひとり、ルーク篁Ⅲ世参謀によって歌詞が書かれた楽曲である。
わたしの友人は、わたしの意に反して、この楽曲を、とても悲惨でトホホな歌と評したことがあった。
そんな友人の主張に反駁しようと考えたのだけれども、言葉で表現するのにどうすればよいのかわからなかったものである。
そんな中、デーモン小暮閣下はさすがなもので、この楽曲を、誰よりも深く静かに世の中を憤慨している歌だと、アルバム「WORST」の曲目解説の中で評していた。
自分では言葉に出来なかった部分を、デーモン閣下が的確な言葉にして表現してくれたので、まさに我が意を得たりと思ったものだ。
太宰治が「晩年」あたりで、死にたいと思っているときには、逆に明るい作品を書き、生きようとしているときには、逆に暗い作品を書く、といった内容のことを述べていたと思う。
絶望の歌詞は、生きようとする者の、強烈な生への意思である。


なんだかんだ、負の符号の身の上話をしてみたけれども、改めて文字に起こすと、とてもちっぽけで些細な出来事ではなかったかと思えてくる。
生きているうちに、負の言葉は中和される。
ふたたび思い出そうとしない限りは。
杞人憂天、すべての人生の悩みは、きっと杞憂であるに違いない。

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