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旗挙八幡、義仲偲ぶ その②

旗挙八幡周辺の景色を眺めていると、木曽次郎、今井四郎、そして巴の呼び合う声が聞こえてくるかのような、不思議な気配を感じてしまう。
三人が馬の轡を並べて、木曽の山野を駆け回っている情景が脳裏をよぎる。
今井四郎兼平とその妹・巴は、木曽次郎義仲を匿っていた中原兼遠の子供たちで兄妹であるという。
ほかの兼遠の兄弟たちと比べて年の頃が近かったために、ほかの兄弟たちよりも深い絆が育まれたものだろうか。
義仲の最期を描いたシーンにおいても、この三人は、最後に残った主従として描かれている。

木曽義仲居館跡の碑

木曽義仲という人物には、粗野で粗暴、荒くれ者といったイメージがつきまとってはいるものの、なぜだか惹きつけられる魅力がある。
日本の歴史には、老獪な人物の方が多くて、若さに任せて突っ走り、若さゆえに自滅していくといった直情型の人物は少ないように感じている。
幕末史については或る種異様で、若さに任せて突っ走っていく人物たちが時代を作り、風雲、嵐を呼んだ時代であるが、若干、若さがオーバーフロー気味で、若さゆえの失敗も、それ単独では個性として成立しにくい側面があるような気がする。
義仲は、既得権益の大海を自在に泳ぐ、泳ぎに長けた老獪な権力者たちによって、振り回されて没落していく。
その若さゆえの没落が、封建制時代には珍しい個性として、この時代に特別な彩りを添えているように思う。
木曽義仲と言う人物は、その青春を、勢いにままに突っ走ってつんのめった、代表的な封建制時代の武士なのではあるまいか。
そこに大きな魅力が潜んでいるように思う。

旗挙八幡 扁額が青い!

今井兼平について、私は長いあいだ、勘違いをし続けていた。
秋田の阿仁地方に伝わる伝承を、間違えて記憶していたために、今井兼平が実は落ち延びて秋田に逃れていたのだと勘違いをしていたのだ。
義仲と兼平の最期についての描写は、琵琶法師が場を盛り上げるために作り出した脚色で、本当は兼平は、秋田の山中・奥阿仁の地へと落ち延びていたものと思い込んでいた。
兼平討死が史実だとしたなら、兼平の血縁の者が逃れてきたということを、秋田の方で間違えて伝承してしまったのだろうと思いもしたものだ。
結局、間違えていたのは、情けないことに自分の方であった。
秋田の阿仁へと逃れ着いていた人物は、今井兼平の次男ということで、確実な資料としての実名は伝わっていないものの、今井了順という名前が伝承されている。
やはり、今井兼平も、巴御前も、義仲の激情の炎が消えるとともに、儚く消えてゆくのが美しかろうと思う。
友の最期を見届けるに及んで、自らもともにその場で最期を迎える結末の方が美しい。
巴についても、義仲亡きあと、和田義盛のとなりに侍る姿は、個人的にはあまり気乗りしないのだ。
和田義盛を取り上げる場合には、作劇上、華を添えるということもあるのかもしれないけれども、義仲主従推しで来た者にとっては、なにやら居心地悪く感じられてしまう。
巴もまた、義仲退場とともに、歴史の表舞台からは姿を消していくのがいいかなと、個人的には思っている。

巴ヶ淵 巴になりそうな渦流

後世の創作の影響もあろうかとは思うけれども、義仲という男には、荒くれ者のイメージとともに、女々しさのイメージもまた強くつきまとっているようだ。
女を逃がし、友を気にかけ、あっけなく敵に討たれてしまう。
世が戦国時代であれば、捨て奸(がまり)も何もあったものではない。
戦国島津家の当主であったならば、最悪の当主に当てはまるものかもしれない。
義仲は、自分に自刃することを促して、単身奮闘する今井兼平の身を案じ、振り返ったところを矢で射抜かれて命を落とす。
これを爽快な武人の最期と見るか、女々しき武人の最期と見るかは、義仲という人物をどのような立場で見ているか、その偏見によって変わるとも言える。
義仲は、追い詰められて今まさに死に臨まんとする最期のときまで、友の安否に心を動かされるほど、情の人であったのだろう。
自らの身の功名や恥よりも、友人の身を案ずる甘ちゃん気質が、義仲という人物にはあったのか。
そうであってみれば、老獪な院や鎌倉方には、到底適うはずもなく滅び去ったのだろう。
そして、それゆえにこそ、ある種の爽快さでもって、史上から姿を消してゆく義仲の姿に、心惹かれてしまうのだ。
今井兼平は、「これが武士の死に様ぞ!」と、主君の甘さを叱責するかのように自決したと描かれることが多い様子ではあるけれども、その描写が真実に近いのならば、実際のところ、「この人は!」と呆れながらも、眼には熱い涙があふれて止まらないといった風な最期ではなかったかと思うのである。
主君の甘さに呆れながらも、友として義兄弟としては、最高の友を得たとの確信とともに、兼平は自決したのではないだろうか。
スピードワゴンも涙を流す、大甘ちゃんの義仲主従。
権謀術数渦巻く血生臭い時代にあって、そんな甘ちゃんたちの姿は、ひとつの救いのようでもあるし、荒ぶる青春時代の勢いのままに、慌ただしく退場を迎えていくような義仲主従の姿は、湿っぽさも少なく爽やかであろうかと思う。
後年、俳人の松尾芭蕉が、木曽義仲を敬愛したというのも、至極、頷けようというものだ。


信州には、旭将軍・木曽義仲の、青春時代にまつわる史跡が数多い。
木曽谷にあれば、旗挙八幡、巴ヶ淵、南宮神社、徳音寺。
少し足を伸ばして、奈良井宿の鎮神社は、養父・中原兼遠が勧請したものだという。
小県郡に目を移せば、挙兵の城の依田城跡、戦勝祈願の宝蔵寺岩屋観音、笠懸の矢を奉納した安良居神社、白鳥河原の勢揃いの舞台である白鳥神社は海野宿の中にある。
木曽町日義地区周辺の景色を見ながら、義仲の牧歌的な幼年時代に想いを馳せるのも楽しいし、上田市丸子地区や東御市海野地区などの、満を持して世に名乗りを挙げる挙兵の地を旅するのも、また楽しい。
そこから、川中島に進出して決戦の地・横田河原、そして、鬼無里の土倉文殊堂を過ぎれば、倶利伽羅峠ももう近い。
けれども、その先の義仲の動向については、追わないことにしようと思う。
信州周辺には、義仲の没落にまつわる史跡は存在していないので、信州という土地に記憶されている木曽義仲は、いつまでも、輝ける旭将軍のままである。

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