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宗像の女神についての妄想的考察。

宗像族と、その宗像族に祀られていた三女神を読み解くことは、日本古代史のロマンに魅せられた者にとっては、避けては通れない道のような思いがする。
それだけ、日本の古代史の核心に迫ることでもあり、禁忌に迫ることでもあり、妄想をたくましく働かせて考察する愉しさに溢れている。
宗像族と三女神の周辺は、日本の歴史の中でも特に禁忌とされている部分が多い。
北九州にとどまらず、津軽半島にまで進出していたように思われる宗像信仰ではあるが、その信仰圏の広さとは相反して、記紀神話の中では、誕生の説話のほかに描かれている箇所はない。
宗像の女神は、意図的に無視されていると見えなくもないのである。
そもそもが、宗像大社の本質でもある沖ノ島には足を踏み入れることさえ許されないわけであるから、ますますもって妄想が幅を効かせることになる。
宗像大社の奥宮である沖ノ島には、絶対的禁足地として、古代より守り通されてきた約束事がある。
「この島で見たものは、決して口外してはならない。」
「この島からは、一木一草一石たりとも持ち出してはならない。」
あまり知らないときには、なんのことはないように思えていたこの言葉ではあったのだが、
いろいろ考え合わせてみるようになると、上記の言葉の存在が、とても重苦しいもののように思えてきている。


瀬織津姫と同一視されることもある、宗像の女神。
宗像三女神には、さまざまな同一説が存在している。
記紀や古史古伝の混同された表記や別名とする表記などから、宗像三女神が分割されたひとりの女神である可能性があるということ。
三女神の一柱・田心姫が、出雲の大国主神(大己貴神)のもとに嫁いでいると、古事記の中に書かれているということ。
三女神の一柱・湍津姫が、出雲の大国主神(大己貴神)のもとに嫁いでいると、先代旧事本紀の中に書かれているということ。
三女神の一柱・市杵島姫が、饒速日命と夫婦であったという籠神社の伝承。
話が長いことになるので詳細は別の機会に譲るけれども、同一の存在と見なされる、大国主神・大己貴神・大物主神・大歳神・饒速日命という存在。
秀真伝において、男性太陽神アマテルの妃神であったとされる瀬織津姫の伝承。
先代旧事本紀において、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と呼ばれるなど、太陽の神格を有する饒速日命の伝承。
大祓詞の中の一節により、瀬織津姫が、宗像三女神の一柱・湍津姫(タギツヒメ)と重ねられて見なされるということ。
田心姫については、大国主神に嫁いだという伝承のほかに、独身のまま沖ノ島にこもっているという伝承のあることの矛盾点もまた見受けられる。
宗像大社と大宰府のなかほどにある天照神社、そこに物部の祖神ニギハヤヒが降臨したという伝承もあり、両者は近しい存在であるのかもしれない。
そして、アマテラスと自らを同化し、ニギハヤヒから太陽神としての神格を剥奪、その妃神・瀬織津姫を祀る神社に、祭神を変えるように詔を出したといわれる持統天皇。
日本国の正史、古事記・日本書紀編纂時の権力者が、天武天皇の妻であった持統天皇と、藤原不比等であった。
持統天皇は、女性として初めて中国皇帝に即位した、唐の則天武后(武則天)と同時代人であり、気概としては、日本の則天武后になろうとしたのかもしれない。
持統は、自分と天武帝との間に産まれた草壁皇子を次期天皇とするためにも、藤原不比等と組んで、草壁皇子のライバルとも言える武市皇子や大津皇子と対立したであろうか。


高市皇子は、天武天皇の妾腹の長子である。
母は地方豪族・宗像徳善の娘、宗像尼子娘(あまこのいらつめ)という。
高市皇子は、その背後に宗像族の影がちらつく皇子でもある。
天智天皇の後継をめぐる壬申の乱において、高市皇子は、美濃国不破関方面の軍を統括する活躍をし、大和・難波方面を指揮する大伴吹負と双璧を成す活躍をしたという。
父である大海人皇子(天武)に代わって前線で軍を率いて戦ったとされるので、おそらく有能な人物であったのだろう。
天武天皇の正室と言える持統天皇の子ではなかったため、皇太子となることはなかったものの、持統朝にあっても臣下最高位の太政大臣に任命されていた。
おそらく特別なカリスマ性で、持統の子や孫たちを凌ぐ人望を持っていたのではあるまいか。
少なくとも、天武帝の支持者の中にあっては、大将とされるだけの器量を、もっとも備えていた人物であったろう。
そして、武市皇子には、天武帝亡きあと、実は天皇として即位していたのではないかという疑惑がある。
高市皇子の子である長屋王の屋敷跡から、「長屋親王」と書かれた木簡が出土しているためである。
「親王」とは、天皇の子としての存在にしか使用されない尊号であるからだ。
高市皇子の子の長屋王は、大伴旅人らと組んで、藤原不比等の子ら藤原四兄弟との政争を繰り広げる。
長屋王排斥を画策する藤原四兄弟たちの動きによって、大宰府に左遷された大伴旅人は、その後、山上憶良らなどとともに大宰府歌壇を形成していく。
巷間、「酒の歌人」としての大伴旅人の方が有名であると思うけれども、酒の歌の背後にあるのは、左遷された近衛兵長官としての鬱屈があったのではないかと思われる。
大伴氏と藤原氏の政争は、その後、伴大納言・伴善男の失脚となった応天門の変に繋がり、伴善男の後裔として登場する鬼無里の鬼女・紅葉の存在もあり、信州とのゆかりが深い。
滋野三家のひとつ望月家は、この大伴氏との関係が深く、信州史を見るにあたっても大伴氏は避けては通れない氏族であろうかと思っている。
また、大宰府歌壇には沙弥満誓という人物がいるのだが、この人物も、はじめて木曽路が開削されたときの美濃守であったということで、このあたり信州との微妙なリンクが垣間見れる。


話が脱線してしまった。
高市皇子(天皇?)の没後、持統は、自身の即位の正統性を主張するために、男性太陽神(饒速日命)を女性太陽神(天照大神)にすり替え、饒速日命の妃神・瀬織津姫を祀る神社に向けては、その祭神を変えるように詔勅を出した。
そしてそれは、武市皇子の母の出自でもある、宗像氏の祀る宗像三女神の封印にも直結することになったであろう。
宗像三女神の一柱・湍津姫は、瀬織津姫と重なってくるからである。
夫・天武帝の嬪(側室)とも言える宗像尼子娘を、皇后として正妻としてのプライドから、持統は、いや、一人の女性として鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、封印したかったのかもしれない。
自らの子を押しのけて、軍を指揮し、政治に影響力を持ち、天皇として即位していたのかもしれない、側室の子・高市皇子。
もし本当に、高市皇子の即位が事実であったのなら、持統こと鵜野讃良は、その母親の存在ごと認めたくなかったであろう。
持統は、寵臣・藤原不比等と組んで、記紀編纂に神話体系から介入し、大規模な歴史改竄を行なったであろうか。
持統と不比等の時代に行なわれた記紀編纂という事業の中に、持統自身の神格化という段階から一歩踏み込んで、強い感情のうねりのようなものを感じてしまう。
政治的な介入に先立つ感情的なもの。
どうにも呪詛めいた匂いが漂ってきてしまい、個人的にそれを払拭できなくなってしまっている。


天智天皇(中大兄皇子)の娘として生まれ、天武天皇(大海人皇子)に嫁いだ、持統天皇こと鵜野讃良皇女は、当時、圧倒的に高貴な存在であったことであろう。
天武帝の嬪(後宮の妾)として、長子・高市皇子を身ごもった宗像氏の娘などは、完全に見下してしまうほどに。
しかし、その嬪が産み落とした高市皇子は、軍事・政治において類稀なる才能を見せ、非公式ながら、たちまちのうちに天武帝の後継者のような立場に立つようになる。
鵜野讃良皇女の皇族としてのプライド、そして女としてのプライドは、ずたずたに傷ついたものであろうか。
母としての、負けられない思いもまた、抑え込んでもなお噴出してきたことであろう。
謀略によって蘇我氏を滅ぼした、父・天智譲りの血が、ここにきて疼きだしたものかもしれない。
鵜野讃良皇女は、かつての父の謀臣であった中臣鎌足の子・不比等を頼り、その智慧を借り受けたものであろうか。
大津皇子の謀反捏造の可能性や、武市皇子暗殺の可能性もあり得ないことではない。
そしてまた、宗像封印の罠を、記紀編纂時の神話体系の中に盛り込んだとしたら、どうであろうか。
天照大神の命令によって、宗像三女神は、国土を、そして領海を守るための任に就いているとされている。
宗像三女神の一柱・田心姫は、国土・領海を守るため、独身を貫いて、独り禁足の地・沖ノ島に暮らすという。


「この島で見たものは、決して口外してはならない。」
「この島からは、一木一草一石たりとも持ち出してはならない。」
その言葉は、神域への畏敬であるとともに、何か都合の悪いものの隠匿であったと考えられるかもしれない。
沖ノ島では徹底した宗像封じが行なわれているとも言える。
高市皇子の母・尼子娘の最期については、何も伝わってはいない。
ひょっとすると、鵜野讃良皇女は、宗像尼子娘の存在を憎み、沖ノ島に幽閉・島流しとしたのではないか。
いや、野晒しの死を願っていたのかもしれない。
宗像三女神の分割と、瀬織津姫の封印、宗像尼子娘への複雑な感情、それらはすべて一体のものであったのではあるまいか。
同時代の歌人・柿本人麻呂の詠んだ歌の中に、「水底の歌」と呼ばれる不穏な歌の一群がある。
人麻呂自身が、自らの死を想像して詠んだとも言われているが、その目的は謎である。
柿本人麻呂が、武市皇子と親しかったという説もあり、万葉集の中には高市皇子を弔う壮大な歌が載せられている。
誰か親しい人物の、幽閉と獄死という不幸に触発されて筆が進んだということも、あり得ない話ではないかと思う。
都市伝説ではあるものの、人麻呂は、「いろは歌」の沓の部分に「咎なくて死す」の一文を隠した人物だとの説もあり、歴史ミステリーの醍醐味を感じてしまう。
なにか薄暗い意思の痕跡だけが、証拠もないところで蠢いている。
ここまで話を広げてみると、先に挙げた、沖ノ島で守り続けられてきた、禁足地としての約束ごと、それが、突然に恐ろしい響きをもって聞こえてくる。
「この島で、その死を見届けた者がいたとしても、口外無用。」
「一木一石は言うに及ばず、その骨のひとかけらでも、この島からは持ち出すことは許さない。」・・・と。



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