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道恋5 杖突峠

長野県道16号は、諏訪エリアでは、別名・西街道と呼ばれ、諏訪湖西岸を走る清々しいドライブルートである。天竜川の水源である釜口水門を通り、湖岸のさざ波を聞きながら、八ヶ岳の雄大な山容や、遠望の富士の姿などを、諏訪湖越しに眺めることの出来る、たいへん心地のよい道なのである。諏訪湖を離れてそのまま道沿いに南へ進めば、やがて、諏訪大社の案内板が増えてくる。そう、この道は、諏訪大社・上社の本宮と前宮を繋いで延びている参道としての道でもある。本宮と前宮を横目に見ながら、名残り惜しみつつ通り過ぎたところに、国道152号、杖突峠への曲がり角が見えてくる。前宮のすぐわきを駆け上がるようにして延びているのが、杖突峠へと登る道・杖突街道である。この杖突街道は、戦国期には、諏訪頼重と高遠頼継の争いの舞台ともなった峠であり、武田家滅亡の際には、高遠城において凄絶な籠城戦が繰り広げられた。国道152号線を、杖突峠を越えて伊那谷へと下ってゆけば、高遠城址に辿り着く。諏訪総領家の分家であった高遠氏は、たびたび諏訪本家と杖突峠を舞台に抗争を繰り返していた。高遠氏と同盟した武田氏が、諏訪総領家を滅ぼすものの、やがて諏訪総領家を乗っ取った武田家によって、高遠氏も滅ぼされてしまった。諏訪氏を名跡を継いだ武田家の四男が四郎勝頼であり、高遠氏を継いだ武田家の五男が五郎盛信である。そしてこの五郎盛信もまた、織田・徳川との戦いの中、高遠城を舞台に城を枕の討ち死にを遂げる。諏訪の上社と高遠城址を繋ぐ歴史の道、それがこの杖突街道なのである。

諏訪湖と八ヶ岳

さて、この杖突街道、さきほどの県道16号とともに、諏訪エリアに生まれた人たちをうらやましく思うくらいのよい峠道であると思う。仕事終わりなどに、峠の茶屋付近までちゃちゃっと行って帰ってくるのに、往復して20分程度と、時間的にもちょうどよい。ヘアピン気味のカーブでも、しっかりとふくらみを持たせてくれているので、コーナリング中にもゆとりをもって冷静な対処が出来る。勾配もほどよく、ダウンヒル時には、急減速や小刻みな減速などもさほど必要なく、適度なブレーキングのみで駆けくだることが出来るだろう。運転下手な自分のような者にとっては、運転がうまくなっているかのような錯覚を起こさせてくれる、心強くとても頼もしい峠道なのである。路面状況のよい区間も長く、舗装状態も(令和3年現在)新しめのため、タイヤがしっとりなじんでくれる感覚がまた、心地よい。そのなじみ感が心地よくて、ヒルクライムもまた愉しく感じるこの峠である。まれに、積み荷の砂をまき散らしながら走るダンプカーがいたりして、そのあとの路面は砂だらけとなっていて、とてもタイヤがなじむどころの話ではなくなるが、そんなときは軽いダート走行だと思って諦めてしまおう。通りに出没するシカやカモシカのたぐいは、随分とのろまなところがあって、なかなか逃げようとしてくれない。ほかの峠道と違って、世間知らずででもあるのだろうか、シカの行動がやけに緩慢だ。ほかの峠道では、シカは、直線部分を横切ることが多いのだが、ここのシカは、コーナー部分を横切ろうとするから、まったくたちが悪い。さらに、一頭目が危ない目に合っているというのに、続けて二頭目が後を追いかけてくることもあるから、まったく気が抜けないのである。幸い、シカなどには衝突したことはないのだが、これからも気をつけようと思う。ちなみに、高遠側は、割りとまっすぐめの道を延々と下っていく道になっていて、軽快なルートではあるが、峠道としては、やや難易度には欠けていると思う。

峠の茶屋から麓までのカーブの数は35個である。C33番、遠くに見える諏訪盆地の夜景を横目に見ながら徐々にペースを上げていく。C26番、分離帯で車線を隔てられたコーナーを曲がって、お気に入りのC24番、C23番、C22番、C21番、C20番の複合コーナーを駆け抜ける。そしてC18番からC17番へ。C17番は広い道幅で大きく曲がっていくコーナーなので、後ろを流して走ったならばきっと楽しいコーナーだろう。すぐにC15番のヘアピンへ続く。C11番とC9番は、高低差や迫ってくる崖面のせいでで少しブラインドの大きいコーナーになっているので、若干のスリル感に気持ちを引き締めながら曲がる。アドレナリンを出しつつC7番へと突入すれば、C7番は垂涎のヘアピンコーナーである。C3番で視界が下の方にひらけてくれば、思わず、あんなに高いところから見えていた夜景が、ここではものすごく近くなっていることに驚いてしまう。C3番の夜景に心を奪われてしまうのも束の間、まごついていると、最終C1番コーナーはとどめをくれるヘアピンだ。おいしいものは最後に食べるという傾向の人間には、ぴったりの趣向である。反対に、登りの際には、いきなりヘアピンからスタートすることになるので、のっけから気分の盛り上がりが半端ではない、魅力的なコースであろうかと思う。

杖突峠の夜のダウンヒルは最高のロケーションである。かたわらに、諏訪湖の夜景を臨みながら下ることになるので、山奥の峠道としては、異次元の美しさに酔いしれることが出来る。湖岸の街のあかりが煌煌と広がり、諏訪湖があるはずの空間だけが、黒く浮き上がって見えているので、光すらのがさず呑みこむブラックホールがそこにあるかのようである。まるで、諏訪湖のブラックホールの中に、光ごと吸い込まれていくかのようなダウンヒルともなっている。言葉にしてしまえば陳腐な響きとなってしまうが、後日の回想の中の峠道としては、杖突峠のダウンヒルはもっとも美しく脳内に焼き付いているのだ。諏訪エリア周辺、ことに諏訪信仰に関しては、歴史的にも民俗的にも、ブラックホールのようにすべてを呑み込みつつそこに在るもの、といった印象を抱いているので、とても象徴的な感じがしている。この夜景を見ながら峠を下れば、そんな諏訪についての象徴的なイメージがふくらみ、この峠をもう一度走りたいという欲求が浮かんできては、已まないのである。


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