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【連載】第7回 喜代多旅館の女将インタビュー#2

東京に住んでいた頃、街でバッタリ知り合いに遭遇した経験が2度あります。そのうち一回は会社からの帰路、混みあう電車内でつり革につかまり、ふと視線を落としたら目の前に座っていたのが当時の上司だった、というものです。

1日の利用者数が20万人を超える駅をおよそ8年利用して、バッタリ出くわしたのがこの上司の他にもう一回だけ、合計2回でした。職業柄、毎日決まった時間に電車に乗っていなかった事も影響していると思いますが、もっと会っても良さそうだけどな、と少し不思議に思っていました。

一方、富山では、こんなにバッタリ会うものなのかと思うほど、どこかしらで知り合いに遭遇します。それを富山の人に話すと、出かける場所が限られているから、と笑います。東京に住んで、同じ沿線に相当数の同僚が住んでいるにも関わらず、まったくバッタリしないことに慣れきってしまっていた私は、富山に引っ越してすぐの頃、街で知り合いにバッタリするたび、リアクションに迷い、少し挙動不審になっていました。

富山に来て1年4ヶ月が過ぎた今は、街での突然のバッタリにもだいぶ慣れてきました。先日は旅館でお世話になっている業者さんと、犬の散歩中にバッタリしました。

業者さん「え〜わんちゃん飼ってたんですね!」
私「そうなんです」
業者さん「実は昔からが犬が好きで・・・」

なんて、お互いの新たな一面を知ることができました。

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さて、ここから今回の本題です。前回は女将のインタビューを映像でお送りしました。今回はそのインタビューを文字に起こして、さらにその内容に対してスタッフ視点で思うことなどを書いていきたいと思います。

==MEMO==
話し言葉を文章に起こすと、微妙なズレが発生する場合があり、今回のインタビューも一部ズレが発生しています。そのため今回、実際に話している言葉から一部文法(間投詞なども含む)を変更・省略しています。本来の意図から外れることの無い様に注意をしていますが、実際のニュアンスをそのまま聞きたい方は、動画の方をご視聴ください。

#2_女将インタビュー​| Founder's Granddaughter Interview


喜代多旅館の女将インタビュー *文字起こし版*

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インタビュアー:時代を少し遡るんですけど、女将は初代(女将の祖母)の頃の喜代多旅館の記憶ってあるんですか?

女将:
自分が生まれた時はもう父親と母親の代に移っていたので、祖母はなんというか先代として。先頭に立っている訳ではなくて、昔でいう大奥様って感じ。なので、自分は知らないです。

インタビュアー:その当時もご家族全員で、旅館に住んでいらっしゃった?

女将:住んでます。その当時、旅館って家族経営が基本だから。24時間何かあったらみれるように。「衣・食・住、一緒」っていうのは、多分どこもそうだったと思う。

インタビュアー:それは40年代、50年代くらいの話?

女将:そう。自分が見てるのは、そう。自分が幼稚園の頃(※1970年代半ば頃)までかな。お座敷で三味線弾いてるとか。

昔は住み込みの人が沢山いた。女中さん5、6人。台所の人2、3人。通いの掃除の人とかいて。住み込みの人たちが順番で朝、玄関を掃除して。掃除の人が来て部屋とか掃除して、みたいな。賄いとかも全員分作るから、台所も住み込みがいた。

インタビュアー:今の喜代多旅館と建物の大きさはそこまで変わらない訳ですよね?その人数が同じ建物の中に住んでるっていうのが、想像できない。

女将:大部屋だから。笑

インタビュアー:そうなんですか。男部屋、女部屋みたいな感じですか?

女将:そう。男の人はいなかったけど、女の人だね。居ましたよたくさん。なんて言ったらいいんだろう。今、想像つくような雰囲気だと相撲部屋みたいな感じ。みんなが一緒に住んでいて、みんなでご飯食べる。で、仕事も一緒ですっていう。

インタビュアー:女将のお母様、喜代多旅館の2代目女将はどんなタイプでしたか。

女将:うちの母親はですね、あのー、いわゆるお嬢様な感じ。笑

インタビュアー:お母様はご兄弟は?

女将:一人っ子。母親生まれてすぐおじいちゃん(2代目の父親)亡くなっているので。一人っ子で。母親も体弱かったので、それはそれは大事に育てられて。なんていうんですかね、ツンとすましたお嬢様な感じじゃなくて、こう・・・笑 大事に育てられたお嬢様な感じ。

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写真:喜代多旅館を創業した初代と2代目。今の女将にとって、実の祖母と母にあたる。


女将:苦労が多かったと思う、二代目の方が。外に働きに行ってるわけでもないし。従業員はそのまま初代の時から同じ人来てるわけだから、何かと先代と比べられるし。多分初代よりも、まあ初代は初代の苦労があって、二代目はまた違う苦労があったんだろうなと思います。

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インタビュアー:お母様が女将業を継いでご苦労されている姿を見て、自分はちょっとやめておこうかなとは思わなかったんですか?

女将:嫌だった。笑24時間を捧げるっていうのが嫌だったから、勤めに行きたくて。外に勤めに行って、その仕事の時間だけ仕事して。プライベートとメリハリのつく生活っていうのにとても憧れて。それで働きに出ました最初。

MEMO!
喜代多旅館の3代目女将は20年近く、富山県庁の職員として働いていました。
関連記事:元県庁職員の3代目おかみが生家の老舗宿をフルリノベ!


インタビュアー:いずれは私が継ぐ、っていう思いもなかったんですか?

女将:あのね、親ももう長女しか、私の姉しか考えてなかったし。自分も、なんていうの、そんな愛想のいい子供ではなかったので、全然対象外と見られていて。自分も客商売、接客に向いてるとは到底思えなかったので、全然考えてなかったですね。

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写真:幼稚園の頃の3代目女将とおよそ10歳年上の姉。本人曰く「昔はよく姉にパシリ役として使われていた」


インタビュアー:旅館を継がれて結構経ちますよね。おいくつの時に継がれたんですか?

女将:いくつだろうな・・・、40代入ってすぐ位ですかね。継ぐっていうか最初は父親もまだ元気だったので、とりあえず手伝いに行こうって。母親が亡くなって女手いるから何かと。

インタビュアー:話が逸れるんですけど、女将がよく口にする「女手がいる」って言うのって、具体的にどういう事って言うのありますか?

女将:なんていうか、(この仕事は)気を配ってなんぼな仕事なんです。例えば男性でも、会社で会議の準備をしたりすると思うんだけど、一通りの事をやっちゃったら終わり、じゃなくて、当日こられたお客様の年代を見て、冷たい飲み物だけじゃダメそうだから、温かい飲み物に変更するとか、膝とか足腰不安な方がいらっしゃるなと思ったら、椅子を持ってくるとか。常にそういう目配りをずーっとしていないといけないと思う仕事で。そういうのがやっぱりちょっと男性は、なんていうか苦手かなっていう。

インタビュアー:それは経験則ですか?今まで見てきた中でとか?

女将:そうね。親とか、祖母とか、女中さんたちとかの仕事を見てきているので、(事前の)準備はあるけど、実際にお客様入られてからがスタートなわけ。準備して、その仕事でコンプリートっていう事はなくて。それにプラスしたり、引いたりっていうのを繰り返すっていうのがこの仕事で。そこが、会社員時代(の仕事)と違うっていうか、自分もそうだし。


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インタビュアー:リノベーションをお金かけてやろうってなった時に、多分それなりに妄想するんじゃないかなと僕は思っているんですね。理想像を思い描くんじゃないかなって。そういうの初期の段階の理想像って、覚えてるものありますか?

女将:開かれたかったですね。なんというかその、祖母の代の頃って、旅館って地域の宴会場の部分が半分で、県外の人の泊まりの部分が半分なんだけど、やっぱり(今と比べると当時は)地域の社交場としての部分ってもっとずっと大きかったはずなんですよ。はずっていうか、そうだったんです。で、時代の流れで(旅館は)宴会をするような場所では段々なくなって行って、地域の人が全然関係ない場所になっちゃって。で、もうちょっとこう地域に対して開かれた場ではありたかったかな。

インタビュアー:どんどん観光のお客さんが多くなっていった、ということですか?

女将:宿泊は仕事関係の人が多かったですね。定期的に富山にくる営業さん。

インタビュアー:以前何度か女将の口から聞いたんですけど、「富山はどこに行っても同じ人しか集まらない」っていう、そこがちょっと相反するところかなと思っていて、ローカルに開かれたっていうのと。

女将:富山だけでなく、全国地方ってしようがない。人の移動がそんなに無いから。むしろそれと違う所って限られた都会で、そっち(人の移動が多い地域)の方が少ないわけですよ。

だけどやっぱり商売している以上は地元の人とこう、なんだろうね。支えあうじゃないけど、やっぱり地元のつながりあってなんぼだって思っている。あと旅館って直接話をするとかじゃなくても、外の人が出入りするので、地元の人にとっても違う雰囲気になるのかなって思って。(地元と外の要素)両方あって欲しい。

自分が全然違う土地に行って、観光客ばっかりいるレストランでずっとご飯食べてても全然旅行な気分にならない。例えば、聞き取れなくても周りがみんな方言を喋ってるとか。近所のおばちゃんが、今日これたくさん採れたからあげるよっていう植物がすごいその地方のものだったり。「あ、マンゴーあげてる」とか。「サツマイモすごいたくさん持ってる・・・」とか。そういうのを見てこそ旅行にきたって感じだし。地元の部分がないと、単なる観光案内所になっちゃうっていうか。うん、それは、うん。必ずあって欲しい。地元の部分6。外の部分4くらいであって欲しいかなって。


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インタビュアー:思い描いていた理想に対して1年3ヶ月経った今、どうでしょうか。

女将:あんまりコンセプトとかを明確に出す方ではないんですけど、それは先代も先々代もそうだと思う。なんていうか、合わせていくタイプ。そのお客さんお客さんに合わせていくタイプなんで、コンセプトというものはあまりないんだけども。

でも変わった建物を作っちゃったなっていう自覚はあって、これがすごい好き嫌いがハッキリするだろうなっていう心配をしていた。でも、結果的にはやってよかったなって。自分たちからある程度示さないと、支持してくるれる人たちにも伝わらないんだなって。リノベしてからの方が、より伝わりやすくなっているなっていう実感はありますね。

インタビュアー:おばあさまがそもそも喜代多旅館を建てて、お母様の代でも改修をされてるじゃないですか。

女将:そうそう。

インタビュアー:ということはこの建物って3代目女将の個性そのものなんじゃないかと思ったんです。

女将:そう、まあ、それ以外の何者でもないよね。多分。笑 だから将来、もし自分の代が誰かに変わることがあったら、それはその時の時代に合わせて、その人の強みに合わせて。今どれだけ周りにウケてるって言っても、それがそのまま自分の強みにはならない。なんていうか、周りで広く流行っているとか、周りで広く支持されるほど戦う相手が多い。そこで突出するって、よっぽどのことがないと突出できない。勝つっていうより、生き残る。だから、競争相手が少なくて、かつ自分がよく知っているとこを、自分が好きだとかはまた別で、選りすぐって厳選していかないと、これだったら安定して同じレベルで仕事ができるとか、他より少し余計にできるとかいう事を考えていかないと生き残れない。

インタビュアー:今後の展望はありますか?

女将:一番苦手な質問。笑

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インタビュアー:とりあえず1年3ヶ月を経ての次、のお考えがあれば。

女将:今まだ私も、世間的にも、新しい時代の旅行ってどうなっていくのかよくわからない。実際にこの1年ちょっとで仕事自体は、会社にすらいかなくても大丈夫そうだってなったんだから、出張そんなに必要なのかって話は当然出ると思うんですよね。物理的に県境を越えたり、物理的に島から大陸移ったりすることだけが移動なのかって。で、それが必要なのかっていう話は続いていくと思っていて。どうなるか全然わからないけれども、この一年でよかったことは、地元の観光支援キャンペーンみたいなのがあって、近くでもリフレッシュできるとか、なんていうか、移動の遠さに比例してリフレッシュが決まるわけじゃないっていうのは、なんとなく自分も思ったし。思っていただいたお客様も多かったんじゃないかと思って。そういうニーズに応えられるようになりたいと考えています。あと、やっぱりコロナだけじゃなくて、感染対策とか安全対策っていうのは、これから不特定多数の人が出入りする施設は、必ずとっていかないといけないことなんだということがよくわかった。なるべく安心して来ていただけるように努めてまいります。


撮影・編集後記

この女将へのインタビューは、この連載企画を書いている最中に思い立ちました。提案から撮影・編集、公開に至るまでおよそ2週間で実現しました。こうした撮影企画の際、喜代多旅館はロケーションに事欠きません。撮影する側としては、可能性があちこちに見つかる箱(場所)です。

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今回のインタビュー撮影は喜代多旅館の大広間で行いました。この部屋は東側が一面窓になっているので、日中、とてもいい感じに日が入ります。それを生かしたかったので、今回の撮影では照明は使用していません。

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顔の一方に光があたり、反対側は影がかかるようにしてみました。この光あたり方は、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」を意識しています。

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画の話はさておき、インタビューの内容についてですが、旅館で働くスタッフ視点ではリノベーション初期の頃の理想像を質問した際の「もっとローカルに対して開かれたかった」という言葉が一番の収穫な気がしています。

女将:開かれたかったですね。なんというかその、祖母の代の頃って、旅館って地域の宴会場の部分が半分で、県外の人の泊まりの部分が半分なんだけど、やっぱり(今と比べると当時は)地域の社交場としての部分ってもっとずっと大きかったはずなんですよ。はずっていうか、そうだったんです。で、時代の流れで(旅館は)宴会をするような場所では段々なくなって行って、地域の人が全然関係ない場所になっちゃって。で、もうちょっとこう地域に対して開かれた場ではありたかったかな。

この話を聞いて私が子どもの頃は(1990年代)、法事や七五三などのイベントごとの度、近くの旅館(もしくは料亭だったかもしれません)に親戚で集まりその大広間で食事をするという習慣があったことを思い出しました。そこの中庭には池があって、立派な錦鯉が泳いでいたのを覚えています。そんな集まりも、私の祖父・祖母の世代が亡くなってからは、ほぼなくなってしまいました。

女将:自分が全然違う土地に行って、観光客ばっかりいるレストランでずっとご飯食べてても全然旅行な気分にならない。例えば、聞き取れなくても周りがみんな方言を喋ってるとか。近所のおばちゃんが、今日これたくさん採れたからあげるよっていう植物がすごいその地方のものだったり。「あ、マンゴーあげてる」とか。「サツマイモすごいたくさん持ってる・・・」とか。そういうのを見てこそ旅行にきたって感じだし。地元の部分がないと、単なる観光案内所になっちゃうっていうか。うん、それは、うん。必ずあって欲しい。地元の部分6。外の部分4くらいであって欲しいかなって。

私は地方に旅行に行った際、その地元の商店街やデパートをブラブラすることが好きなので、この話はとても共感できました。よその土地の日常の中に紛れこむ(?)のは、別に悪いことをしているわけでもないのにスリルを感じます。

喜代多旅館という場所がローカル(富山)の人にとっても、ローカルじゃない人にとっても、そんなスリルや非日常を味わうことができる場になることができたら、きっと誰もがふらりと立ち寄りたくなる場所になるのではないかと考えています。

そして、そんな場所になる上で大切にすべきなのは、我々自身の温度感を知ることな気がしています。そのために、日頃のやりとりも含め、こうした女将へのインタビューやこの連載企画という素材を積み重ねて、我々自身の温度を知ろうとしています。オープンから1年以上が経ちまして、そろそろその温度を知る材料も集まってきた感覚があります。

その温度感はおそらく、冒頭で書いた富山の街でバッタリ知り合いに遭遇した時のそれと似ている気がしています。

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今回はこの辺で。お読みいただきありがとうございました。

なお、次回8回目からは不定期更新となります。

→ 次回へ (公開後、ジャンプできるようになります)



休んでかれ。