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「自意識」について思い出すこと(「サラバ!」を読んで)

(読書感想文ですが、ネタバレはないです。というか、読書感想文ですらないかもしれない。)

「最近、小説を全然読んでいないんだよね」という話を妻にしたら、「この本、面白かったよ」と言ってこの本を本棚から出してきてくれました。

どうにも、小説を読むと没頭してしまうので、他の考え事ができなくなってしまうし(普段は5冊くらいを並行して読んでいる。どれもなかなか読み終わらない。)、面白すぎて、寝る間を惜しんで一気読みしてしまうくせがあるので、"コスパ"が悪いんだよなあ、とか考えていたら、気づいたら二年くらい小説を読んでいませんでした。せっかくの妻のオススメなので、読んでみました。そして一気読みしてしまった。

西加奈子さんは、大学生の頃から大好きな作家さん。さくら、あおい、とかすごく好きだった。

この本を読むあいだ、僕は「自意識」のことを考えていた

物語を物語として楽しみながら、一方で、僕はずっと「自意識」について考えを巡らせていました。

「自意識」というのは不思議な言葉で、「自分の意識」という意味のはずですが、この言葉を使うときは、なんだか、「他者の目を前提としたときの、自分の意識」という意味合いで使うことが多いです。「自意識過剰」という言葉もそういう文脈で使われていると思う。

そういう意味での「自意識」について、思い出すことが3つあって、読書感想文に代えて、一度文章にしてみたいと考えました。

「自意識」の思い出①幼稚園のとき

おそらく、ぼくが5歳か6歳くらいのときのことです。3歳年下の弟に、おもちゃを取られたかなんだかしたことがありました。

すごく覚えているのは、家の廊下で、おもちゃを取った弟と、おもちゃを取られた兄である僕がいて、そして、母と話しているシーン。

そのときの僕は「弟におもちゃを取られたことで悲しくて泣いちゃうなんて、そういうのは、"兄"として情けないことだ。だから、泣いちゃいけないんだ。」という感情をもっていた、ということをすごく鮮明に覚えているんです。だけど、当時の僕には悲しくなる気持ちを抑えることができず、泣いちゃった。
母は「お兄ちゃんなのに、そんなことで泣かないの」というようなことを言うタイプではなかったように思うし、実際、その場でも、そう言わなかったと思うんですが、なぜか僕の中には「兄としてのあるべき像」みたいなものがあって、そのあるべき像(泣いちゃいけない)と現実の自分の乖離(実際は泣いちゃう)が、どうしようもできませんでした。

「僕の自意識」と「母に認識される「僕の自意識」」のギャップ

そして、これは、そのとき、その瞬間の記憶かは定かではないのですが、「僕のなかには「兄としてのあるべき像」があるのだけど、母は、僕がそういう「あるべき像」を持っている、とは認識していないんじゃないか」(だって実際は僕は泣いちゃっているし)と感じていた気がするんです。

話がややこしいですね。

なんというか、「母が思っているより、僕はちゃんとわかっているはずだ」という感覚が近いかもしれません。
今思うと、ただの強がりでは?という気もするし、別に母が僕を甘く見る、とか軽く見る、ということがあったとかが言いたいわけではないんです。

この記憶があるから、世の中一般に「自分の子供に対しても、一人格として接しなければならない」みたいな考え方に対して、けっこうリアリティをもって同意するし、そう接しているような気がしています。「この子たち、けっこうわかっているんだよな」と。

自意識の思い出②弟から呼び捨てにされること

また弟が絡む思い出。いまでこそ、弟からは「兄ちゃん」と呼ばれていますが、小学校とか、幼稚園くらいのころは、下の名前で呼び捨てにされていました。親たちが僕のことを名前で呼び捨てにするから、当たり前といえば、当たりまえ。

その様子をみた、友人のお母さんに、「うちのお兄ちゃんは、妹に呼び捨てにされるとすごく怒るんだよ。あなたはやさしいんだね。」と言われたことがありました。

当時の僕には、呼び捨てを怒らないことと、やさしさが結びつくのが全然わからなかったんです。どう呼ばれたって、僕は僕じゃん、というのが僕の思いでした。

でも、そこから20年位経ち、自分の娘をみていると、彼女は兄から呼び捨てにされるとすごく怒るんですね。「〇〇ちゃんと呼べー!」と。彼女は自分がどうありたいか、というのをすごく強くもっている子で、自分がどうありたいかと、どう呼ばれるか、というのを強く結びつけているんだろうなあ、というのが見ていて面白いです(そして、やっぱり優しさは関係なさそうじゃん、と思いました)

自意識の思い出③中学校のときに作った川柳

中1か中2の国語の授業で、「川柳」を作ってみよう。という授業がありました。そのときの僕が作った川柳がこちら。

先生や友達の目が気になって

今思うと、いやいやいや、と思います。本当は、ここに書くのも恥ずかしい。当時も、担任の先生と個別に面談する機会が1学期ごとにあったのですが、この川柳を授業で発表した学期は、僕がまっさきに呼ばれて面談の場が持たれ、「大丈夫か?」ってすごく心配されました。

でも、当時のぼくなりに、わりと「ほめられるのでは?」という気持ちすらあったんですね。

先生とか友達の目が気になることを、わざわざ川柳にしてまで言おうとする、ということは、逆に言うと、それまでの僕は、言うほど気にしてなかった、ということなんだと思います。それが、「自意識」が芽生えて、「そうか、僕は先生とか友達にどう思われているかを、意識しているんだな」ということに気づいたのが、そのあたりでした。だから「自意識の存在に気づいた記念日」的な意味を込めて「僕もとうとう気づいたよ!!」ということを川柳にしたかったんですね。「これが教科書で習った思春期か!」みたいな感じです。

それが、先生に、面談の順番入れ替えるくらいに心配されることになって、びっくりしてしまって、心配してくれること自体は嬉しいけれども全く本意ではなかったので、「そうか、これ言い方気をつけないと大人は心配しちゃうやつなんだな」ということが、当時の僕の最大の学びでした。

そこから先、「自意識」について特に思い出すことがない

別に、担任の先生に心配されたのがショックだった、というわけでもなく、なんだか、そんなに思い出すようなエピソードもなく。たぶん、僕は人生のどこかのタイミングで、うまく折り合いをつけられたんだろうなあ、と、最後まで「サラバ!」を読んで感じたのでした。

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