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君たちはなぜ宣伝しないのか

「君たちはどう生きるか」は意味深長なタイトルとポスター以外に公開前の宣伝が一切なされなかった。俺は駿が心配だった。どうしたんだい駿…作った映画を見せるのが嫌になったのかい…?今の君はtoo shyな心持ちかい…?俺は映画を見に行ったものか迷った。駿が見せるかどうか迷っている(推定)ものを俺が見に行くのは無遠慮ではないか。俺はデリカシーに欠けた人間だろうか…?君たちはどう生きるか。すでに問われていると感じた…。

公開中の「君たちはどう生きるか」を見たので感想です。映画見てから読んでね

 結果から言えば、俺は公開からしばし間を置いて先週末に映画を鑑賞した。いかに己が胸に問うても答えは出ず、迷いを断ち切りたい心が求めたのはやはり駿だった。気が付くと俺の脚は映画館に向いていて、レイトショーの上映時間が迫っていた…。

 映画は面白かった。駿の監督作品を見るのは久々だったが、偏執的なまでに背景を埋め尽くすオブジェクトやらうごめく生命やらが俺にかつて見たジブリ作品の記憶を思い起こさせた。(俺は昔となりのトトロと千と千尋の神隠しの二作を見たことがある)内容は事前に予想していたよりもずっと平易だった。というのも俺はもっと作った当人にしかわからないような、内省を極めた作品を予想していたからである。実際には作品は開かれており、製作チームのチームワークを感じさせ、また子供の目を意識して作られていた。
一方で宣伝をしない理由は痛いほどよくわかった。というのも作品が商業主義に背を向けていたからだ。

 映画はこれまで駿が関わったコンテンツへの失望自責の念を示していた…少なくとも俺にはそれが自明に思えた。石の積み木は俗世の垢にまみれて喘ぐイマジネーションの世界を…鳥たちは文字通り(果たしてここまで直截に受け取って良いものだろうか?)子供を食い物にするアニメ産業を描いていた!!アオサギの言う「すべてのアオサギが嘘つきである」とは、言い換えれば「すべてのアニメは嘘つきである」なのではないか?そしてまだ子供である眞人だけがそれを否定するのだ。

 そんな作品が大々的に宣伝をかけては矛盾もいいところである。作品から自ずと導き出される態度が、俺と駿の仲を…引き裂いた!

 駿は突如としてPUNKの気概となり、もうどうにでもなれと厭世観をぶちまけたのだろうか?だとするならどうして駿はそうなる前に俺に一言相談してくれなかったのか?…正直言って俺はその痛烈な語り口に驚かされた。が、改めて考えてみればこのような創作世界の否定は過去の作品でもなされていたと思う。

 千と千尋の神隠しを例にとってみよう。クライマックスで千はハクの正体をコハク川という川であると見抜き、また無数の豚の中に両親はいないことを見て取った。二つの場面には物事の真実の姿を見抜くという共通点があるが、後者にはファンタジーを否定して現実を受け入れようとするニュアンスがある。すなわち両親はいやしい真似を働いたかもしれないがブタではなく人間である、そして自分たちは家族であるというありのままの現実を受け入れたことにあの場面の意義があるのであって、その瞬間から湯屋から押し付けられたファンタジーは否定され、千は千尋に戻るのである。

 そう、千と千尋の神隠しにおいて、駿はファンタジーを否定するだけにとどまらず、湯屋への逃避を経てたくましく生きてゆく千尋を描いていた。君たちはどう生きるかもまた、作品が示しているのは決して失意ばかりではない。駿はまた創作の持つ意義をも確かにこの映画を通して伝えていた。駿よ!そうなんだろう?

 駿は答えない。暗い部屋でこのページを開き、モニタの照り返しを顔に受けながら、固く口をつぐんでいる…

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