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序章 ハマクアのネイティブ・ハワイアン、ラナキラさんについての備忘録から始まる魂の旅


ラナキラさんは、カヒコという神事のようなフラを教えるクムフラ(フラの師範)。

ハマクア


ハワイ島北東部にある町ハマクアは、偉大なマウナケアの北斜面に位置する。
高貴な酋長の地域で偉大な指導者を育てる土地。
未来の世代に命を与える場所。


古典フラ・カヒコ


(ラナキラさんのお話)

ハワイの文化は口伝承で、歴史や智慧をオリやメレと呼ばれる歌で受け継がれてきた。その和音や歌詞の中に、歴史と叡智のすべてが込められている。


それだけでなく、動きや視線で物語や歴史をわかりやすく伝える一方で、儀式・祭典の舞踊でもある。(日本の神楽のような感じ)


フラに舞の動きを加えることで、周囲のエネルギーを揺り動かし、私たちが求めるものを呼び起こし、創り出すための正しい振動を生み出す。


フラもまた鏡のように人生を反映し、感情を呼び起こす方法としても働く。


カヒコ・フラは、より伝統的で、私たちが分離した存在として見ていなかった時代に書かれたり詠まれたりしたもの。


私たちが踊ると、その「要素」そのものになった。
神について踊ったのではなく実際に神そのものになった。
私たちは神々を具現化した。


詩にはハワイの歴史的人物が絡み合い、偉業を成し遂げた酋長や亡くなった人々は、同じ特徴を示す要素と結びつくことで不滅の存在となる。
その過程で彼らは神格化される。


人間は元々神の一部だが、フラでは神の一部ではなく、神そのものになる。それが真の結合だ。


カヒコは、神があちらにいて我々がこちらにいるのではなく、
実際にここにいて共に生き、
ずっとそうしてきたことを思い出させてくれる。


自然の振動・音・動きを模倣


フラの本来の踊り手は、木にそよぐ風、波、動物や霊などの存在だ。
フラは大地が教えてくれたことであり、その自然の動きを模倣している。

自然が教えてくれる言葉、その地域の振動・音・動きを、その土地の部族が模倣したもの。

フラを踊るのは、大地と会話する方法を学ぶ訳ではない。
私たちも自然そのもので、アイナ(大地)の一部であることを思い出すということだ。

ただただ自然という家族と語り合い、自然の一部であるということを思い出す。

私たちは地球の子どもだから、私たちネイティブ・ハワイアンにとって、現代の自然から離れた存在として生きる世界観は、とても奇妙に見える。

大地との最初の会話は聞くこと観察すること。
耳を傾けず観察もしないのなら何も言うべきではない。

そして、もはや誰も耳を傾けなくなった今、
ただ学び、
再び耳を傾ける必要がある。


大地の言葉を話す方法を学ぶ時、衣装もレイも手作りをする。

どの植物を使うかの知識が必要だし、
物語の特定の部分を伝えるための植物でレイをつくるために、
森や山に採取に行くときは、
どの植物がどこで育ちどう成長したか、どう摘み取るかを知らなければならない時、私たちは植物学者になる。

海の動きを踊るには、実際に海を知って必要な物を集め、水の動きを知る水の研究者にもなる。


フラを踊るということは、自然そのものになることだから。

一体になること。それが最初のステップ。

自然に、環境活動家のような存在になる。


自然との共存関係を理解しているから私たちは実際に繋がっている。

自然を失えば私たちは消滅する。

フラは森なしでは存在できないし海なしでは存在できない。

コミュニティなしでは存在できない。


フラを本当に知ることは環境を完全に知ることだ。



ハワイアンの本当のフラ


私たちは、娯楽やエンタメとしてのフラは、本物のフラダンサーではないと言っている。


見た目重視で売れるからという理由で踊るフラは、消費したりお金儲けのために魚を獲ることしか知らない漁師と同じで、

魚のことを知り、どこにいて、どの産卵サイクルで、どうすれば乱獲せず魚が生き続けられるよう還元できるかを知ることとは対照的だからだ。

また、山で木を採取する時、どこにどの木があり、どのように成長し、どう種を蒔くか正確に熟知し、必要な物をどう集めればよいか知ることとは対照的だ。


木をただ切り倒す方法を知っているのと、森の手入れをする方法を知っているのとでは、自然環境の持続可能性が違ってくる。


そこに自然があって、私たちがここにいて、
守護者やお世話役であるべきという考え。
常にそのようにしてきた。


古代の偉大な叡智や知識などではなく、実際にそれは常識的な感覚だった。


水を飲みたいなら水を大切にしなければならない。
私たちは水を作らない、山が水を供給する。
なので山を大切にしよう。

そんな具合で、自分たちが関わるものはなんでも知っていた。


動物でいうなら例えばクマ。
自然界での役割があり循環の一部で役立っている。

肉食で、その糞さえも大地に還元する。
ベリーを探すため地面を掻き回す。
最後は体が還元される。
全て繋がりあっている。


それぞれの植物はそれぞれの栄養素を提供し、
果実を生み出し、鳥がその果実を食べ種を運ぶ。
全てが連動している。


でも私たちは、自分達のつながりを見出さない。


自身を自然から切り離したものとして見るべきではない。


祖先は皆、大地の生態系の一部になることに先住民性を見出した。
それが私にとってのネイティブハワイアン、先住民の定義。
環境との積極的な共存を達成する人間のことだ。


我々が自然から切り離されたのはごく最近のこと。
それも覚えておかなければならない。


今、まるで自然から離れた存在のように、
自然と繋がる方法を探さなければならないと話しているが、
実際には人間はずっと自然の一部だ。


ほんの少しの間、なんらかの形で切り離された。


なので、カヒコはそのバランスを取り戻すための雛形だ。


カヒコは生き方


フラは日々の生活の反映であり、行いを映し出している。

単に自然と繋がる道具ではなく生きるのに必要なことを思い出させたり、日々の暮らしの中でどう考えなければならないか思い出させてくれる。

私自身もクム・フラでありながら、農夫でもあり、教師でもあり、植林者でもあり、森林の手入れもする、

それがフラ。
生き方であり、生きているフラ。
フラは生き方について語るもの。


私たちが自然と繋がりのある自然の一部だという思想は、世界中の先住民族に共通している。というのも基盤である精神的・哲学的な頭脳と心が、環境に根ざしているからだ。

環境に共通点が多い。
山、川、森、植物、生態系のサイクルは同じで、
共に生きる環境の中に共通点が見られる。

自給自足の概念は同じ基盤を引き寄せる。
環境によって特性はあるが構造は同じだ。

移住や移行があったにせよ、異なる民族の文化は地球に根ざし
大地や環境と繋がっていた。
そこに共通点が見える。


その概念が一つのものから全てに浸透したのか、移り変わりの中で他の人々と共有されたのかは分からない。

多くの思想は、固有の環境に根ざすことのできた私たち自身から生まれたものだと思う。

海は間違いなくそれに当てはまり、太平洋に住む我々全てに共通する思想があると思う。

私たちは西洋人が伝える前から、長い間お互いに交流してきた。
自給自足的に暮らし、全てのつながりの中にずっといたので、家を出ていく必要があまりなかった。



魂から語りかける振動音


言語学者がいうように、太平洋に住む我々はアジアから移動してきたか、
アフリカ大陸を経由するかして、独自に出現した根幹的言語がある。


言語学者ではないので母音について強い主張は持っていないが、柔らかさとシンプルさがある。環境に耳を傾ける発想に由来する環境に根ざした言語。

英語とは対照的。英語は風景から生まれた言語ではない。
英語は人間の視点から生まれた複雑で混ざり合った音。
大地の環境から生まれた振動音ではない。


多くの先住民の言葉には非常に長い母音がある。
特に太平洋全体に広がる語族はそう。

呼吸や母音など全てには意識があるという発想。

そこにはハ(生命)がある。
それは魂に語りかける。

私自身の経験と、言語学者から聞いた話だ。


日本とハワイの関係性


日本は非常に神聖な場所。
それを私たちは感じている。

ハワイアンを惹きつけ、訪れて分かち合いたいと思わせる要因の一つだと思う。

古くから関係性があり、我々の君主の時代にまで遡る。
当時の指導者、最後の王カラカウワと明治天皇の間には神聖な絆があったが、

さらに古い絆があり、お互いに尊敬の念を抱いていた。
共に地球の民であると知っている関係性だと思う。

押し寄せる経済の流れの中で、私たちは世界の家であり風景であり、
神聖な関係を維持するのは私たち次第だということを
忘れてはならないという基盤がまだあった。

共に古くからの伝統と文化に根ざしていて、祖先が守り神聖な関係を維持してくれたお蔭で今も存在している。


今日、資本主義が圧倒的にこの基盤から私たちを引き離そうとしている時代に生きている。


そんな私たちの日々の暮らしには、ほとんど価値がない。
だから、たくさんのモノや経験を求めてあれもこれもやろうとする。
というのも、私たちが得るものすべてが本当に豊かではないからだ。


私たちの祖先はすべてを持っていた。
芸術家、漁師、踊り手、なんであれ、日々の暮らしの小さな作業に、
祈りや感動や思い出が、豊かに溢れていた。


全世界を消費する必要がなかった。
満ち足りていて、大地や日々の暮らしの中で幸せを感じていた。


美しい場所を訪れるたびに、環境との繋がりがますます希薄になってきていると感じる。
なぜならそれらは意図的に設計されているからだ。

私たちを切り離し、日々の暮らしに豊かさを感じさせないようにすることで、満腹感を得るためにはさらに多くの消費をしなければならないように、権力者たちがデザインしている。


知恵や日々の暮らしの知識、偉大な存在の一部であるという感覚と引き換えに消費が促される。なので私たちは頻繁に虚しさを感じてしまう。


しかし本当は、
シンプルな作業、簡素さの中に、
非常に多くの豊かさがある。


地球と私たちの未来のためにすることは


我々は、どのように環境と繋がり、どうやって地球を救うかについて話しあってきた。


選択肢はない。私たちは地球を守らなければならない。次の世代の人たちがいるのだから。


その全てにおいて言えることは、実は

”より少ないことをする”

ということ。


私たちがやるべきことは、ただゆっくりすることだけ。


コロナが、減速しゆったり時を過ごすことを私たちに教えてくれた。
大地や動物など全てが癒やされ戻ってくるのを見ることができた。
本当に必要なものは、ずっと少なくてよいということを示してくれた。



家族と過ごす時間や身近な家庭での時間は、人生を解放する助けとなる。
人生を解放するというのは、日々の生活や家族、そして私たちのコミュニティの周りの人々に目を向ける時間を取り戻すということ。
そして空間を与えるということ。


メッセージ


日本、ハワイ、世界の人々へ


ゆっくり過ごす発想を持つことだと思う。


あまりたくさんのモノは必要ではないと思う。


既に持っているものを大切にすることは、物質的な財産や影響力を得るよりも、人生をより充実したものにしてくれるだろう。


豊かさや充実感は、水や山、私たちの周りの世界をただ知ることから得られるだろう。




5月16日頃に見たYouTube動画
TOLAND VLOG


私の感想


ラナキラさん。衝撃だった。

山納銀之輔さんの時には、日本でこんな生き方をしてる人がいたのかという希望を見出した衝撃。

大西つねきさんの時には、日本を取り巻く世界金融の思惑、お金も幻想の一つという事実の裏付けを知った衝撃。


そしてこの、ラナキラさんを知って受けた衝撃は、、

魂の記憶を呼び起こすような一撃。

左脳が止まり、ひたすら右脳が聴いている。

そしてハートに響いてくる。

氣の領域、ライトボディ、オーラ、そんなところが
どよめくように反応している感じ!!



覚醒への導き手が、また目の前に来た。


つまり、5月に入ってから度々受け取っていたカウアイからのメッセージ。

ハワイに行かねばならないということだ。

カウアイだと思っていたが、ハマクアなんだろうか。

薄らとよぎる。


後半のこの動画で、さらなる衝撃を受けた。そして、そこから私のハワイ行きが運ばれるように動き出して行った。


つづく。









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