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【大河ドラマ】鎌倉殿の13人 第3回「挙兵は慎重に」感想

第3回感想です。
始まると頼朝と政子が結ばれ、大姫が生まれていたのは驚きました。
前回までが承安5年(1175)の話で今回は治承4年(1180)4月~6月頃の話。
劇中で約5年話が飛んだことになりますね。
私が楽しみにしているのは頼朝死後の展開なので、スピード感があるのは良いことと思います。

さて、今回は単なる感想ではなく、頼朝に令旨を送り、挙兵の協力を求めた以仁王について簡単に解説したいと思います。

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以仁王は後白河法皇の第二皇子で母は権大納言藤原季成の娘。
家柄は十分に高貴であり、皇位継承の有力候補だったのですが、平家一門は異母弟の憲仁親王(後の高倉天皇)を推しており、親王宣下すら受けられない不遇をかこっていました。
しかし、それでも以仁王が皇位継承候補者であり続けたのは、鳥羽法皇の皇女・八条院暲子内親王の猶子となっていたからです。
八条院暲子内親王は、父・鳥羽法皇と母・美福門院から後に八条院領と称される膨大な荘園群を譲与されており、平家も一目置く政治力と経済力を保有していました。
実際、八条院は准母として二条天皇を養育した過去もあり、その猶子である以仁王は八条院の後援の下、本来は正統な皇統でありながら早世によって絶えた二条天皇、六条天皇の系統の後継者という位置づけでした。
しかし、安徳天皇が践祚し高倉院政が開始。高倉上皇には第二皇子の守貞親王もおり、以仁王の即位の可能性は限りなくゼロとなりました。
追い詰められた以仁王は後援者である八条院に仕える武士であった源頼政、源行家らと語らい合って挙兵を計画します。

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劇中で「いかがわしい」と評された行家。ちなみにこの人は死んでません。再登場します。

以仁王らの計画が事前に露見し、準備不足の挙兵があっさり失敗に終わったのはドラマの展開の通り。
挙兵した以仁王は皇籍を剥奪され、強引に「源以光」の名を与えられました。
これは平家を討って皇位につくことを宣言した以仁王への「あいつはもう皇族ではないから皇位継承候補者ではない」という平家のアンサーですね。
結果、以仁王は皇族ではなく源氏としてその生涯を終えることになりました。

挙兵を決断した源頼朝。そして、静かにその挙兵に乗ることを決めた義時。
いよいよ次回は本格的に源平の戦い(治承・寿永の乱)の始まりとなりそうですね。



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