『恋せぬふたり』第2話|理解を求めてるわけではなく干渉しないでほしいだけ
『恋せぬふたり』第2話を観た。初回放送の何倍も苦しい気持ちになった。あらすじを少し振り返ってみる。(第1話はこちら↓)
咲子(岸井ゆきの)が男の人と一緒に暮らしていることを知り動揺する咲子の家族を安心させるために、恋人のふりをすることになった高橋(高橋一生)。
ところが、咲子の妹は、二人に対して手を繋いだりキスをしたりするよう促したり、馴れ初めや高橋の家族のことをズケズケと聞き出したりして、見るからに高橋は苦痛を強いられていた。
たとえその二人が本当に恋人同士だったとしても、こんな風に人前でキスするように囃し立てたり、どっちから告白したか等々の詳細を聞き出そうとしたりするノリを見るのが、私は本当に苦手だ。仮に家族であったとしても、人の恋愛をエンタメ化して消費することは、あってはならないことだと思っている。
咲子の妹夫婦が高橋が親に捨てられて祖母に育てられた過去を聞き出してしまったせいで、気まずい空気が流れた。それに耐えかねた妹が「これから普通に幸せになればいいんだよ」と言う。その言葉にとうとう咲子は耐えられなくなり、アロマンティック・アセクシュアルであることをカミングアウト。しかし、母親は理解できないの一点張りで、咲子と高橋の同居を全否定する。
「こういう人間もいる、こういうこともある、で話終わらないんですかね?」
これは作中の高橋の台詞だ。セクシュアリティの話などに限定したことではなく、まさに常日頃私が思っていることそのものだった。
どうして人々は、他人の生き方にそんなに干渉したがるのだろうと、常々疑問に思いながら私は生きてきた。自分が他人に関心がなさすぎるのかな?とも思ったけど、やっぱりちょっと異常なくらいに、社会は個々人に対して干渉しすぎだと思う。
たとえ家族であっても、それぞれ別々の人間なのだから、考えは違っていて当然だ。
「何をするにもいちいち親に言うことはないですし」という高橋の台詞も、過干渉な親を持つ私には刺さりました。
最後に余談だが、高橋が咲子のことを“味方”と表現したのを聞いて、以前記事にも書いたことのある、SUPER BEAVERの「愛しい人」の歌詞を思い出した。
他人にはとてもじゃないけど 見せたくない本性も/互いに知ってなお 寄り添い合えたなら/それはもう恋じゃなくてさ 惚れた腫れたなんて超えた/愛だ もう愛だ 死ぬまで味方でいよう
人と人同士のあらゆる関係性を、友達、恋人、家族とか、そんな数種類の言葉で表現しきれるわけがない。そんな中で、相手のことを“味方”と表現できるなんて、なんて最強最高なのだろうと思った。私も、そんな関係性を人と築けたらいいな。
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恋愛しない人が浮かない世の中に変える活動をするために使います。エッセイ以外にも小説を書いたり、歌も作っています。