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写真と時間

皆さんこんにちは
最近急に寒くなって睡眠時間も伸びてきた気がします...

今年ももう終わりに近付いて、撮影の依頼も落ち着いたのでようやく美術館やら本を読んだりお散歩したりと時間をかけて趣味を楽しんでます。

溜まってたフィルム現像もしてきました

前回ロランバルトの本を読んで記事を書いたのですが、写真と時間の関係性から考えて時間の概念という果てしない難題を考え始めてしまいました....
(小さい頃宇宙やら時間やらについて考えて寝られない日々があった事思い出します)

別にこの記事で答えを出そうとは思ってなく、ただ自分が今思ってることを書いてまた今夜から時間というやつに向き合おうと思ってます

タイムパフォーマンスについて
ここ数年でよく耳にする言葉「タイムパフォーマンス」
正直この言葉が嫌いです。
この言葉とよくセットで聞くのが時短、効率的とかですよね

何が嫌いかというとじっくり楽しむべきコンテンツをサクッと消費されているのがとても悲しくてそれで嫌いになってます。

先日釣りへ、まったりのんびりゆったりと

とはいえ勉強や仕事においてはこの考え方はとても大事だと思います。

趣味嗜好に効率を求めるのはなんだかとても勿体無いですよね、咀嚼せずに胃に入れてるだけというような感覚
友人にも効率を気にしてる人がいて話を聞いてみると「時間をかけて駄作と分かるものを見る必要がない」と言われ何とも言えない気持ちになりました。


確かに分かります、2時間以上する映画を見てどうしようもない駄作だったときの感情は今でも忘れません....
けど!あの感じがあってこその人生だと思うんですよ....!

はじめから面白いと知って開けるというのはなんて面白くないんだろうと
面白いと期待して開けてその結果をどう自分の中に閉まって、噛み砕いて、答えを出すべきだと思うんです。

写真について
長くなりましたが、上で述べたようにサクッと簡単にいい写真だよと説明されて見る写真はその時点でいい写真では無くなってしまうのではないかと思います。

日の出、朝弱いので見れたのは奇跡

最近写真を撮って、見て。
感じることは沢山あるんですけれど、いいなと思う写真が必ずしも世間一般にもいいなと思われるような物ではないと感じます。

恐らく、世間一般で「いい写真」と言われる大半は所謂「広告的」な写真ではないかなと思います。
「広告的」な写真とは、パッと見て主題が明らかでありメッセージ性がシンプルで明確なものであると自分の中で定義しています。
上のような写真は数多の設計が隠されており多くの人が一つの思いを汲み取れるように撮られています、だからこそ人は良いと反応しますがそういった写真は自分の中では何も生まれないと思っていてサルトルの言葉を用いると

新聞の写真が"私に何も語りかけない"

ジャン=ポール・サルトル

伝わる時間が短い分、自分の中に入り巡って同化するまで一瞬なので何も語られずただ流れていってしまうのでしょう。

今回凄く長くなってしまいましたね....
そろそろまとめます

時間を軸に今回は写真について思っていることを綴りました。
ネットの普及に伴い情報の伝達スピードが早まった結果、コンテンツの消費スピードも格段に早まりました。
それと同時に技術進歩によって増え始めたカメラマン(自分もその1人だが)達により流される写真達

結果「いい写真」が消費スピードに合わせた刺激的で衝撃的な、言葉を選ばず言うと「ジャンクフード」のように手軽に感動を得られるようなものと認識されてしまうようになった。

今後自分が写真を撮る時はもう少しその本質について触れながら撮りたいと思いました
長くなりましたが今回はここまでにします、皆さんの写真についての考えも是非聞かせてくださいね。

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