"報われない努力はしない"という選択は合理的なのか


成功してる人は努力している
うまくいかないのは努力していない、もしくは足りないだけ
環境や才能を言い訳にするな


どう思いますか?

成功者は努力している、が成り立っても
努力すれば成功する、は成り立たない
努力とは必要条件なだけである。
成功するには他にも諸々の要素がある。

努力以外の要素。
こういうことを言うタイプはこの辺りをちゃんと自己分析せずに自分は努力で成り上がったといいたがる。
自分の努力以外にも環境その他の要素があると認めない。
これを認めてしまうと、あたかも恵まれた環境だから成功したかのように思われるからだろう。
自分の力で切り拓いてきたという自身のアイデンティティにも関わるからそこには触れたくないのだろう。努力していることは間違いないとは思うけれど。

いろんな人が情報発信できる現在では、成功するための方法論みたいなものをよく見かける。情報商材みたいな。noteも例外ではない。
ビジネスや勉強のような目に見えない要素が多いジャンルでは、これらの情報はまるで再現性があるかのように感じてしまう。

同じことをすればなんとかなるかもしれない、と。

実際はそうではない。
もっと本質的なものがある。
手段、方法論としては役立つものがあるのかもしれないが本質が伴わなければ何も意味がない。
自分の浅さを発信するだけでは、と思う。
これまでの積み重ねがあり、そこにさらに本人の資質・環境が加わって、はじめて結果が出る。

スポーツで同じことを言っていたらどうだろう。
"これをやればプロレベルになれる"
"プロになるためのたった〇つの方法"
ウソだ。なれるわけがない。
いくら努力しようと100mを9秒台で走るなんて一般人では無理なのだ。
そこには、性別・年齢・その他の様々な要素の違いがある。
私のような人間とトップレベルの人間とは、そもそも素質が違っていて、そこには努力で埋められない差がある。

努力の否定が今回のテーマではない。
努力では超えられないものがあるという書き方をしているけれど、努力自体がムダとは言っていない。
いま、あえて目標を金メダリストに設定して書いた。
これに到達できるなんて一握りだ。
人間という集団のなかで突出した存在を例にあげているから、ムリになるだけ。これは極論だ。

自分という個の存在がもつ可能性の幅を考えたとき、その幅のなかであれば個人の努力で上の方に向かっていくことが可能だ。
もちろん、自分の到達できる上限が他の人にとっては努力しなくても到達できるラインであることだって当然ある。
私は悔しい思いをしたことがあるし、自分が頑張ったところでせいぜいここまでだろうなというラインが見えることもある。
それでも、"自分が努力したところで他人の普通レベルかもしれない"ということは自分がやらない理由にはならない。
報われるというゴールをどこにおくか、という問題はあるものの無駄な努力は無いと思う。

自分という個をより豊かにしようと思えば、少しでも伸ばせるところは伸ばした方がいい。
頑張ってもどうせ人並みにしかなれないからとその種目を降りる気持ちは理解できる。

世間ではそういう競技が行われているかもしれないけれど別に参加しなくてもいい。
個人の幸せをどこに見出すか、で参加種目は変わる。自分で決めたらいい。
限られた人しか楽しめない種目よりもっといい種目があるかもしれない。


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