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他責思考でもいいんじゃない

 SNSではいろんな意見を目にすることがあるが、私が理解できないものも多い。理解できないものを切り捨てて目に触れないようにすることもできるが、あえてその考えや心情を読み取ろうとすることもある。
頭の中で考え続けていると、どうしても考えが凝り固まっていくのでそれをほぐすという感じだろうか。

とはいえ、そこに至る心理は分かるけれど私とは相容れないな、と思うものはある。
「~のせいで」
「~させられた」
みたいな論説に思うことを書きたい。
私は、このような他責思考が好きではない。

なぜかと考えると、そこには自分の意思が無いかのように感じるからだ。
これを言うのが十分な判断力とか思考力をもたない幼児とかなら分かる。それは躾をしていない親が悪い。
自分で考えられるはずのいい大人が何かのせいにしているような発言をすることは恥ずかしい。

好きではないと書いたが、
正確には別に他責思考なことはどうでもよくて、自分の判断で行動したことを棚に上げて何かを批判することが嫌いなのだ。
あたかも何かにそうさせられたかのような発言。

私は、何か選択を迫られたときに人の意見を聞いたりすることは少ない。他人の意見を収集することはあるが、それは判断のための情報にするためである。情報を基に判断を下すことと情報を鵜呑みにすることは全く違う。

"考える"という行為は人間が獲得した能力である。
考えない人間は人間であることを放棄しているといっていい。

考えるということはエネルギーを使うことかもしれない。
判断するためにはさまざまな情報を探して、それらが信用できるか裏取りするとかやらなければならないことはたくさんある。

何かを鵜呑みにして楽な方に流れることはできる。
それは、楽な方に流れるという"自分の判断"だ。
"自分の判断"が誤っていた時にあなたは納得できるか。

現代は個人主義だ。
自分がどう生きようが自由だ。
自分がやりたいことをしていいし、やりたくないことはやらなくていい。

しかし、自由に生きた結果の責任は自分でとらなければいけない。
でも、それに目を背けたくて何かのせいにしないと生きていけない人間もいるのは理解できる。

そういう人間にとって、悪いのは世間だとか時代が悪いとかっていう言葉は優しく聞こえる。
そういうことを言う人間は決して本当にあなたのことを考えて発信しているわけではない。そう発信しておけば彼らの儲けにつながるからだ。

優しい言葉であなたを甘やかすけれど誰も責任なんてとらない。
最後になんとかしなければならないのは自分だ。

もちろん、本当に環境が悪いとかそういう状況もあるだろう。
それを踏まえてどうすべきか考えるのは自分なのであって、そこから逃げたっていい。
後で振り返った時に自分が納得できる思考・判断をすることが重要だと思う。


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