ディズニーの情報戦化と子供と世界


いまのディズニーは
楽しむためにはハードルが高い。
課金すれば乗りたいものに乗れるし時間の短縮も可能。
無課金の場合もシステムを高度に理解していればそれなりに楽しめる。
でも昔はそうではなかった。
昔は課金しなくても一日待てばなんとか乗れたし、事前にシステムを頭に叩き込まなくても楽しめた。


みたいなポストを見かけた。

最近、ディズニーに行った私としてもそう思う。
いまディズニーではアプリが必須である。
・パスの購入
・プライオリティパス
・ショーのエントリー
・(課金すれば)プレミアアクセスで待たずにアトラクションに乗れる

これらを使いこなせないと多分しんどいだろうなと思う。
あまり下調べせずになんとなく行ったときにどこまで楽しめるのだろうか。
事前準備をしっかりしてディズニーを満喫したときの楽しさを100とすると、事前準備無しで行ったとき、おそらく50にも届かないのではないか。

別にこれが悪いということを言っているわけではない。
私も遠方に住んでいるから、どうせ行くなら事前に調べて準備をしたうえで遊びに行くしそれが苦にならないタイプだ。
でも、そうでない人達がいるのも理解している。
アプリなどのシステムによって、とても便利に楽しめるようになったのはありがたい。でも、そういうのにアクセスできない層にとっては、いまのディズニーはあまり魅力的に見えないだろう。
ディズニーは営利企業なので、どの方向に行こうがそれは自由だ。いまのやり方が顧客から支持されているなら、それは企業として正しい方向だろう。

子育てという情報戦

いまの子育てと似ているなと思った。

出産~子育ては戦略は重要だ。

保育園を例にだす。
住んでいる自治体の保育園の情報を得る。
そこの定員や受け入れ可能な月齢を調べる。
自分の育休明けから逆算して出産予定日を決めなければならない。
4月から育休明けなのであれば、4月の時点で保育園が受け入れ可能な月齢になるように産む必要があるのだ。
これが少しずれると保育園に入れられないかもしれない。
そうなれば育休を延長しなければならないし、自身のキャリアプランも見直しが必要となる。

保育園に入れる定員より申し込みが多ければ抽選となる。
私の自治体の場合は、点数制である。
申込者の属性により点数がつき、その点数に応じて保育園に入れられるかどうかが決まる。月の労働時間が何時間以上だと100点、みたいな感じ。
さらに兄弟の有無、保護者の疾病、世帯の要介護者有無とかでも点数が加算される。
これらの制度を知っていると、自分の子供が保育園に入れそうか分かる。分かることで、出産後の自分のプランが立てられるのだ。また、どうやれば保育園に入れられるか戦略を立てられる。

自治体の子育てに関連する制度も知らなければ使えない。
向こう(提供側)から情報が来ることはほとんどないため、自分で情報を探し、制度をうまく使っていくことが求められる。
ここでも高度な情報戦を戦い抜かなければならない。

このように子育てをしていくには自治体の制度や、保育園などについて事前に調べておく必要があるし制度を理解したうえで使いこなさなければならない。当たり前といえば当たり前か。
親に聞くと、当時はそこまで努力しなくても保育園に入れられたなあ、とか言ってた。

昔がそうだったかは分からないけれど、
「産めばなんとかなる」みたいな感じが薄れているのだろうか。
産むためにやらなければならないことが多すぎる。
産んで終わりでなく、育てていくためにもやらなければならないこともたくさんある。
さらに、ステージによってやるべきことは更新され続ける。
終わりがない。

まして、そこまで必死にやっても、子供が幸せな人生を送れるかは分からないのだ。悲観的な要素が多すぎる。
リスクを避けるためにやるべきことが多くて、まるでこの世界がつまらないものであるかのよう。
このような状況では、そういうステージから降りる人もいるということは理解できるし、結果として少子化が進むのも分かる。

生きていくための情報戦

もっと広く言えば、この世界自体がすでに情報戦だ。

自分の住む世界に対して、制度や枠組みをいかにハックしてうまく生きていけるか。
ネットでも、そういう情報はいくらでも収集できる。
真贋を見抜く必要はあるが、使いこなせればQOLが上がるのだろうと思う。
でも、万人にそういう目があるわけではないし、そういうものにアクセスして使いこなせるわけではない。

何も考えずに生きていても、それなりに幸せに生きていける。
昔は割とそうだったのかもしれない。
私もそんな世の中がいいなと思う。

少なくともいまはそうではない。
情報戦における平均レベルが高くなったから。
いまは、スマホだけあればそういうものにアクセスできる。
多くの人間が、情報戦で戦い抜くために情報を集めている。
個人レベルで最適な動きをしようと思えばそれが正解だから仕方ない。
個人が最適な動きをした結果、というか、そういう動きを強いられた結果、情報戦における平均のレベルが上がっていく。

一方で、それについていけない人間もいる。
幸せとは多くの人にとって相対的なものだと思う。
周りのレベルについていけない人間が、幸せを感じることは難しいのではないか。

だからといって、何か大層なことを言いたいわけではない。
いくら私がここで叫んだところで何も変わらない。
家族の幸せのためには結局情報戦に参加するしかない。
他人が情報戦のために何をやっているか、またはその結果どういうメリットを享受しているのか、ということが可視化されあたかもやらないと損みたいになってしまっている。
正直他人のことなんて目に入っても何の得もない。

幸福度ランキングで上位にいたブータンが転落していったのは、インターネットの発展により他国の様子を知ってしまったから、と言われている。
比較対象なんて見えないほうがいいのだ。

幸せの基準

自分自身のなかに基準を持たなければ、終わりはない。
この世界には、どこまでいっても上がいるのだ。
1位になれるのは世界に一人だけだ。

別の面で見れば、この世界は資本を使った殴り合いである。
情報戦下で情報がないこと=敗北であるように、
資本主義のこの国で生きていくうえで、資本をもたないことはあまりにも不利である。
子育ても同様だ。

子供の教育にどれだけリソースをかけられるか。
お金をかけてハイレベルな教育を受けさせること。
お金をかけて様々な体験をさせること。
これらができる家庭の子供は高偏差値の大学に行けるし、
大企業に就職することができ、
高い収入を得ることができる。
(これが幸せというわけではないけれど。)

もちろん、お金をかけなくても立派に子供を育てることはできる。
お金が全てではないし、お金をかけたから子供が幸せかというとそうではない。
親が「お金さえあれば」みたいな思想でいると、子供もまたそうなる。
お金に執着した人間が出来上がる。

子は親を見て育つのだ。
親が信念を持って育てることで、子供の価値観が作られる。
外部に基準を持つことは幸せにはつながらない。
幸せは自分の内面にあるという姿を子に見せなければならない。
子育てとは、常に親が試されている。

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