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イタリア人の辛い僧侶体験

日本語を勉強する人の多くはお寺に興味があるようで、最近は宿坊などの僧侶体験が人気です。イタリア人のFくんもそんな一人で、留学プロラムの一つである僧侶体験をとても楽しみにしていました。

イタリアといえばカトリックの総本山があるところですが、Fくんはカトリックに対していくらかの失望があったようで、仏教にその失った希望を見出そうとしていました。

体験の前日、Fくんは眼鏡をかけた丸い顔を期待でさらに丸く膨らませていました。・・こんな風に書くと、決まって次はどんでん返しで悲しい事があるわけですが、果たしてそのとおりで、体験の翌日のレッスンに現れたFくんの丸い眼鏡越しの目は細く、両方の眉はまるでマンガで描いたかのように両端が下がっていて、沈んでいるのが分からない人がいないというくらいあからさまに沈んでいました。

「先生、僕は本当にがっかりました。」

Fくんは目を伏せたままそう言いました。

「僕が行った時、みんなは笑ってイタリアが来た!っていいました。」

「え、イタリアじゃなくて・・?」

「いいえ、イタリアです。」

「みんなは名前がわからなかったんじゃないですか?」

「名前はここにありました。」

と胸の辺りを指しました。みんなに名前がすぐわかるように名札をつけていたようです。

そのお寺は地元では一番大きな寺院として知られていて、F君の他にも数名の僧侶見習いがいたようです。国の名前でからかうなんて、まるで小学生のすること。しかもよりによって、僧侶になろうとしている人がそんなことをするとは、驚きでした。

仕事体験はたしか3,4日くらいあったと思うのですが、Fくんはお寺に行くたびに失望を重ねていくようでした。
みんなは僕とあまり話をしてくれない、僧侶なのにたばこを吸っている、肉を平気で食べている・・

F君の思い描いていたお寺での修行とは全く違っていたようです。
日本語のレッスンのはずが、Fくんのお寺での悲しい体験を聞く時間となってしまいました。

「そんなに辛かったら、体験をもう終わりにしてもいいと思いますよ。私から○○さん(プログラムの責任者)に言ってあげましょうか?」

見かねてそう申し出たのですが、Fくんは、しっかりと強い口調で断りました。

「いいえ、いいんです。みなさんに迷惑をかけたくないから、続けます。だいじょうぶです。でも、僕の次の人が同じ気持ちになったらかわいそうだから、○○さんに最後の日にこのこと(お寺であったこと)を話して、この僧侶体験のプログラムを他の生徒にすすめないで下さいと言います。」
そういって最後までやり通したのです。


もちろんすべてのお寺がF君の体験したようなひどいお寺だとは思いませんが、僧侶見習いをしている人たちが一体どんな気持ちでしているのかと疑問を感じずにはいられませんでした。

そもそも修行というのはなんでしょうか。お寺で毎日のおつとめをしていれば充分なのでしょうか‥・

皮肉にもFくんにはある意味でそれはいい修行となり、「僧侶見習い」の日本人たちよりもF君のほうが悟りに近づいたのではないかと思ってしまいます。





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