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「幸せ」は「やっほい」ぐらいにくだらなくていい。

本日東京は小雨、今の気温は摂氏8度。寒い。暗い。雨もどうせなら嵐ぐらい振り切ってくれれば逆に怒りで日常を送れるが、小雨という中途半端さ。こういう天気の日、とんでもなく気分が沈む。我こそは低気圧にやられる気象病患者、よくない傾向だが「どこにも幸せが見つけられない」みたいなムードに突入しがちだ。

ところで幸せとはなんだっけ。子が優秀な事?人が羨む家に住む事?人よりずば抜けたセンスできらりと光ること?抜きん出た成績で輝かしい仕事の成功を収めること?投資が当たって生涯お金に困らないこと?ここで自分は幸せです、なんて迷わず断言できる人はどれだけいるだろう。おそらくそれなりに人が羨む幸せな状況と思われる人でも「この部分は幸運でした、しかし未来に不安もありますし」みたいに日本人的な美徳を持って控えめに答えそうだ。

「ほぉうら、君が羨ましいと思うもの全部揃えましたよ」いうのがSNSの一つの側面だろう。控えめな美徳とは正反対の資本主義世界で、日頃控えめな幸せアピールの人間も「幸せ☺️」などと幸せ匂わせストーリー投稿をしてしまう。見ていて満足することもあれば、手が届かなくて泣きたくなることもある。私の人生どうやったらここに到達できたというのだらう、みたいな具体性のない漠然とした不安を覚えたらそれはもうかなりヤバいので考えるのをやめたほうがよさそうだ。それでも何かと人生の到達点に幅の出る30代、まだまだ先は長いので今の時点で通知表を受け取る話をする気はさらさらないのだが、自分の至らなさに、他人との差に、途方もなく感じてしまう瞬間は決してゼロではない。オラにもっと力があればよかったのに。

ところで夫は、常日頃から基本的に機嫌の良い男だ。たまにびくともしない様子に腹が立つのだが、心が沈む今日みたいな日に「どうやったらあなたみたいに落ち込まずにいられるのだろう?」と聞いてみた。
「今週の僕は最強だ。週末に作ろうと思ってるルーロー飯がすごく楽しみだし、ホームセンターで目をつけてる熱帯魚も家に迎える気満々でこちらも最高。いかなる不運も楽しみの前には無力。」
と真顔で答えた。いや待て。新しい熱帯魚の話は初耳である。まぁ夫が自分で世話をしてるのだからそれは勝手自由なのだけど。

外食のルーロー飯ではなく自分で作る予定のルーロー飯が楽しみ、ってすごい。もちろん私も息子も一緒にそのルーロー飯をいただく気満々だけれど、自分の料理を楽しみに仕事や日常や日々のあれこれを吹っ飛ばせるなんて、最強なのではないか。「人類の鏡か?」と思わず言ってしまった。

そんな会話の後に考えてみたのだが、私たちは(勝手に他人を巻き込んでしまうスタイルだが)なんだか「幸せ」みたいなものを考えるときに、どうも他人目にも価値があるようなことを置こうとしすぎている。たぶん、「愛」や「誇り」と同じく「幸せ」という言葉がどうも仰々しい。「幸せ」なんて英語でハッピーだぞ。本当のところ「やっほい」ぐらいのもので良い可能性がある。

明日から「私の幸せ」は「私のやっほい」ぐらいに考えて一週間を過ごしてみようと思った。それぐらい多少のしょうもなさを含んでくれていた方が、こちらも気楽に「本日も私はやっほいです」などと人に報告できそうな気がする。何よりくだらない内容をおいても「やっほい」だと許されそうだ。音だろうか。豆腐が崩れずに器に盛れたぐらいの話も、「やっほい」なら暖かく迎えてくれるだろう。



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