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総延長およそ150キロ!「ベルリンの壁」跡地を自転車で辿ってみた。(8) / 「ベルリンの壁」の最後の犠牲者

市内を走る「壁の道」

 「ベルリンの壁」を辿る道は、ベルリンの南東部ルード(Rudow)地区を北上していきます。「ベルリンの壁」の跡に整備された「壁の道」に沿うのは、壁の跡に敷かれた高速道路113号。しばらく高速道路の防音壁を見ながら道を進むことになり、郊外ではなく市内を走っていることを実感します。「壁の道」の郊外ルートは「ベルリンの壁」よりも周りに溢れる自然を楽しむことができました。その一方で、市内ルートでは、もちろん自然を楽しむことができません。ですが、「ベルリンの壁」に関連するものを多く目撃することになっていきます。

ルード地区に残された「ベルリンの壁」。奥に見えるのが高速道路113号。
「ベルリンの壁」はまるで普通の壁のように残されているため見落としてしまうことも(私は1回目は見落としてしまって、壁を見に再度訪れることになりました)。

最後の壁となっていたテルトー運河

 「壁の道」をしばらく進んでいると、見えてくるのはテルトー運河(Teltowkanal)です。4、5キロにわたって、「壁の道」は運河と高速道路に挟まれた形で市内へと伸びていきます。こちらの運河は20世期初頭に築かれたもので、ベルリン東部から西部へと横断する水上輸送の大動脈。今でも運河の上を多くの船が行き交っています。しかし東西ドイツ時代は壁を乗り越えた後に「西側」への逃亡を妨げる最後の障害でした。今では穏やかに流れる運河にしか見えません。ですが、ここでは4名の命が失われているのです。その事実は現実の運河の風景と一致することはなく、ただ困惑を感じさせるばかりでした。

テルトー運河と高速道路に挟まれて「壁の道」は市内へと伸びています。
「東側」から運河越しに見る「西側」。簡単に届きそうに見える「西側」。

「ベルリンの壁」の最後の犠牲者

 しばらく並走してきた高速道路とテルトー運河と別れて、ここからは運河の支流であるブリッツアー運河(Britzer Verbindungskanal)と並走します。ここで見ることになったのは運河の脇に建てられたクリス・ギュフロイ(Chris Gueffroy)の慰霊碑。1989年2月6日に20歳だった青年は「西側」へと逃亡を試みて命を落とします。ただし、彼の死を最後に「ベルリンの壁」で命を落とす者は現れませんでした。東ドイツ政府への批判は高まり、壁を乗り越える者への発砲命令が停止されたのです。彼の死から1年も経たない1989年11月9日に「ベルリンの壁」は崩壊しました。そして壁はもはや人々の移動を妨げるものではなくなったのです。

慰霊碑の背後に見えるのが「西側」。今でも多くの人が慰霊碑に花を手向けています。
慰霊碑には、「ベルリンの壁」の最後の犠牲者であることが書かれています。

橋や通りに残された名前

 「ベルリンの壁」の最後の犠牲者クリス・ギュフロイの名前は、彼が命を落とした場の近くの通りの名前として、そして運河に架かる橋の名前として残されています。通りや橋の名前は何十年経っても、おそらく何百年経っても残り続けることでしょう。そして後世の人々は通りや橋の名前を通じて1989年に起きた悲劇を思い出すことになります。こうした通りや橋の名前から、人々が東西ドイツの分裂や「ベルリンの壁」の生み出した悲劇をいつまでも語り継ぐ強い意思を感じ取ることができるのです。

通りの名前は「クリス・ギュフロイ・アレー」。
「クリス・ギュフロイ橋」から眺めるクリス・ギュフロイが命を落とした場所。

「壁の道」に書かれた落書き

 慰霊碑の前に立っていると、そこで目に入ったのは「壁の道」に書かれた落書きでした。書かれていたのは「No Borders, No Nations , Stop Deportation.」。意訳になってしまいますが、「国境や国家に縛られるな。国外追放を止めろ」と書かれていたのです。おそらく難民について書いたことなのでしょう。ドイツでは難民の受入れを進めていますが、反対など様々な意見もあります。普段はあまり考えない難民問題ですが、国境を越えようと命を落とした若者の姿を思い浮かべると、今まで想像できなかった難民の姿が浮かんできます。私にとってこの場所は「ベルリンの壁」だけでなく難民など普段考えなかったことを思い巡らす場所となりました。

慰霊碑の前に書かれた「No Borders,  No Nations,  Stop Deportation」。
慰霊碑の周りの風景。夏の休日で、多くの人が「壁の道」を訪れていました。


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