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総延長およそ150キロ!「ベルリンの壁」跡地を自転車で辿ってみた。(13)/権力や境界に束縛されない自由の精神

渡ることのできなかった橋

 シュプレー川の川岸に残されている「ベルリンの壁」を辿っていくと橋が見えてきます。ここから東西の境界となるのは、橋を渡った対岸の場所となります。「シリングブリュッケ(Schillingbrücke)」と呼ばれる橋ですが、前回紹介した「オーバーバウムブリュッケ」とは違って国境検問所として利用されておらず、橋であっても通行できない場所となっていました。今では簡単に渡れるからこそ、向こう岸が訪れられない場所だとは想像することはできません。

「シリングブリュッケ」から見るシュプレー川。壁があったところには新しい建物が建てられています。

壁際に建つ粗末な建物

 川を渡って壁のあった場所を追いかけていくと、見えてくるのは教会の建物です。その方向へと向かっていくと、通り沿いに風景に溶け込むことのない異質なものが見えてきます。それは手作りで建てたように見える粗末な建物。外壁は異なる素材の組み合わせで、茶色のものもあれば、赤色のものもあり、見栄えを考えているようには思えません。また家の内部から外に向かって木が伸びており、明らかに普通の家には見えないものとなっているのです。

一際目立つ手作り感あふれる建物。
2階部分に見えるのは「Baumhaus an der Mauer」と書かれた看板。

壁の外に生まれた「東側」の敷地

 壁の脇に建つ粗末な建物ですが、実は「ベルリンの壁」に関連した特別な建物なのです。「壁横のツリーハウス(Baumhaus an der Mauer)」と呼ばれる家で、その建物が建てられたのは特殊な敷地だったのです。そもそも「ベルリンの壁」は正確に東西の境界上に築かれてはいませんでした。建設の都合上、場所によっては境界から「東側」へと凹んだところに築かれていました。それが生み出したのは壁の外側にある「東側」の領土です。そこは「西側」からしか入れないにも関わらず、「西側」当局は管理できない特別な場所だったのです。

地図の左側は「東側」で、右側が「西側」。オレンジと赤の線に囲まれたところが「壁横のツリーハウス」の建つ敷地。(青と赤の線の間は無人地帯です。) / ベルリン市の「ベルリンの壁」のページより

壁崩壊後も守られた敷地

 誰にも管理されることのなかった荒地を、「西側」に住むトルコ移民の老人が畑として開墾したのは80年代初頭のことでした。老人は畑で野菜や果物を育てつつ、そこに建物を建て始めます。1989年の「ベルリンの壁」崩壊以降も老人は土地を引き続き利用していました。ですが、一つの街になったベルリンでは敷地を取り囲む状況が変わり、市当局は不法占拠として退去を求めることになったのです。こうした問題を解決したのは多くの人の支援でした。最終的には市当局が特別許可を老人に与えて、建物も畑も壁跡にそのまま残されることになったのです。

手前のポールから教会の前までが敷地で、その形は三角形となっています。

権力や境界に束縛されない自由

 なぜ多くの人々は「壁横のツリーハウス」を守ったのでしょうか。なぜなら、それがベルリンの精神を体現しているからです。ベルリンでは壁が築かれて、権力者によって人々の暮らしは分断されてきました。だからこそベルリンの人々は、権力や境界に束縛されない自由を大切にしているのです。この建物はまさにそのシンボルと言えるのです。荒地を耕して畑を作った老人の行いは「ベルリンの壁」が生み出した境界に縛られないものでした。また市当局に従わずに畑と建物を守り続けたことは、権力への抵抗と見ることができるでしょう。もし「ベルリンの壁」を訪れることがあれば、「壁横のツリーハウス」をたずねてみてください。ベルリンの人々が大切にしているものに気付くことになるでしょう。

夏には木々の葉で覆われるため全く別の姿になります。
建物を建てた老人(Osman Kalin /1925–2018)について、手作りの看板で説明しています。


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