連載 「こけしの恩返し」03 大学5年生編


やりたいことの方向性を決められぬまま、卒業を迎えようとしていた。

周りの友人たちは着々と就職先を決めていたが、私はモラトリアムと言われてしまえばそれまでなのだが、どうしても「働く」ということの意味、必要性を実感として解ることができず、就職先もなかなか決まらなかった。

履歴書に書く「志望動機」の欄は、嘘でも「社会に出て役に立ちたい」とか書かないとお話しにならないので、自分の本心はひた隠しにして無理矢理動機をでっち上げて書いていた。けれどやっぱり本心は見破られるのか、就職先は決まらなかった。

ある大手のデザイン会社は、なぜか3次面接までいけたのだけど、2次でも3次でも遅刻をし(2次の遅刻の時は笑って許していただいた。懐の広い会社ですね)、3次の遅刻はさすがにおじさまの顔に怒りの要素が溢れていて、結果は不採用だった。

あるデザイン会社の面接の時も、あろうことか再度遅刻をやらかした。すごい怒られた。もう作品すらまともに見てくれる雰囲気ではなく、怒りの言葉と態度の応酬。遅刻する私の人間性に加え、作品も否定され、ボロボロになって最寄り駅に帰り着いた。あまりにもボロボロすぎて、何か癒しを。。と思ってパン屋に寄り、いつもは高くて買わない甘いデニッシュを2個買って帰った。部屋でデニッシュを食べた瞬間、心が緩んでいくのを感じた。そして、今まで食べたパンの中で一番美味しかった。甘くて美味しいそのデニッシュにどんどん癒されていくのを感じ、泣きながら食べた。私はそのデニッシュを作った恰幅のいいヒゲのおじさん(想像)に、心から感謝した。「こんなに美味しいデニッシュを作ってくれてありがとう、私のボロボロの心はおじさんの作ったおいしいデニッシュによってこんなにも救われました。こんな素晴らしいデニッシュを作ってくれて、本当にありがとう」と。パンってすごいなあ、美味しいものって、こんなにも人を救ってくれる力があるんだなあ、と、今までには感じたことのなかった感情を、そのとき味わった。


卒業ぎりぎりか卒業後だったか忘れたが、なんと採用通知をもらった。

そこは個人でやっているデザイン事務所で、都心のおしゃれな地区にあり、私には不釣り合いな場所だなあ、、と思いつつも、そんな場所に通えることが嬉しくもありワクワクした。デザイナーのご夫婦と、アシスタントデザイナーの女性が一人、そこに私はアシスタントアシスタントデザイナーとして入ることになった。

初めての職場、初めての環境、すごく緊張した。

仕事は資料になる素材を集めたり、お客様にお茶を淹れたり、おつかいに行ったり、といったようなことしかしていなかったのだが、たったそれだけのことでも私は全然できていなかった。資料を集めて渡すと「これはイメージしている雰囲気ではない」と言われ、お茶受けの皿にお茶がこぼれているのを拭かずに出したら「ちゃんと拭きなさい」と注意され、タレントさんの名前を呼び捨てにしたら「○○さんでしょ!」と、「さん」を付けなかったことを注意された。

頑張ってやったつもりでもほころびが多過ぎた。頑張れば頑張る程、私は空回りしていた。そしてそのことに私は気付けていなかった。

先輩アシスタントデザイナーの方は1つか2つ年上だったのだが、すごくできる方だった。とても気が利くし、あたりも柔らかく、ご夫婦デザイナーにとても信頼されていた。デザイナーの旦那さんに個室に呼ばれて注意されているとき、「あの子(先輩のこと)はあなたとたった1つか2つしか違わないのに、あんなによくできる。なのになぜあなたはそんなにできないのか?」というようなことを言われ、そうか、私ってそんなに出来ない子だったのか。。。と落ち込んだ。そのあと、その先輩は私を夕食に誘ってくれた。「大丈夫だよ、がんばろう」と言って、いろいろな話を聞かせてくれ、食事代まで出してくれた。本当に救われた。ありがたかった。

結局、その職場は勤務1週間で解雇となった。

ご夫婦デザイナーが求めていた水準に、私が全然達していなかったから、というのが本当のところだと思うが、会社に行き始めてからずっと手にしびれのようなもの感じており、もしかしたら脳に異常があるのではないかと思った私は病院に行くために勤務1週間目でお休みをいただきたい、と言って休ませてもらたのだが、そのあと大事をみて少し休んでいい、と言われたまま、その休みが永遠になったのだった。

結局、デザイナーご夫婦にも先輩にもちゃんと会って別れを告げられぬまま終焉を迎えてしまったので、せめて先輩だけにでも会ってお礼を言えればよかったな、と思う。

あのとき、優しく励まし続けてくれた先輩に、本当に支えられました。確か、お父さんがカメラマンをやってらっしゃって、私の父もカメラマンだったから、近しいものを感じたことを覚えている。今、どこでどんなふうに暮らしていらっしゃるのでしょう。。。

あのときは、短い間でしたが、本当にありがとうございました。



そんな訳で、1週間で職を失った私はその後ニートと化した。

たった1週間の勤務だったけれど、そこでいかに自分は出来ない子であるか、ということを知り、すっかり自信は喪失するし心には傷ができるし、社会に出て行く勇気なんて振り絞ってもどこにもない、そんな状態になってしまった。ちなみに、脳の検査の結果はまったくどこも異常なし。ストレス性のものだったのかもしれない。

母親に就職がダメだったことを電話で報告すると、母はこう言った。

「大学5年生だと思って、1年過ごせばいい」と。

すごいことを言うなあ、と思った。

働くことができない子どもに向かって、怒るとか激励するとか、そういう方向に全く話を進めず、現状でいいよ、と言ってくれたこと。バイトもしていないし、学校にも行ってないし、ただ6畳一間のアパートにいて、ただ生きている、そんな状況を許してくれるというこの母。

落第点だらけの私のことを、そのまま受けとめてくれた母。

母が母でよかったと思う。

本当に、ありがたいことだと思う。

大学5年生、という称号をもらった私は、少し気持ちが楽になった。いつか、飛べるときがくるまで、私はただアパートにいて生きる時間を過ごすことになった。

そうは言いつつ、展示に参加したりもしていた。

時間だけはたくさんあったので、展示しているギャラリーに通ったりもした。銀座にあったそのギャラリーでの展示は、確かちょうど誕生日をはさんでいて、見に来てくれた友人ともんじゃを食べにいったことを覚えている。そのギャラリーの奥さんが中国人の方で、お客さんもあまり来ないのでいろいろとお話させていただいた。私はこの先、自分がどうなっていくのか不安でしょうがなかったので、そんな話をしていると、「飛べますよ」と言ってくださった。「いつか、飛べます」と。根拠がどこにあるのかまったく分からないけれど、その言葉はいたく肯定的で、力強く、説得力を持って私の心に飛び込んできた。そうか、私はいつか飛べるのか。なぜか、その言葉は信用してもいいような気がした。展示が終わったあとも、その言葉を思い出しては、心の支えにしていた。


周りのみんなは就職し、もう大学のころの友人たちは大学にいないし街にもいなくなっていたが、2人、休学していた同学年だった友人が大学に通っていた。彼らがいてくれたこともとても心の支えになっていた。たまに誘い出してくれ、話をしたりして、孤独なひとり大学5年生の私にとってはありがたすぎる存在だった。

その年の学園祭で、彼らと模擬店を出すことになった。

私ともうひとり、卒業した友人を交え、現役生の中になぜか卒業生がいる、という不思議な状態のカフェだった。

「風ぐるま」という名前のそのカフェは、環境デザイン科のひとりが建物をデザインして作り、おそろいのTシャツをユニクロで買い、ドングリ型の帽子を友人に編んでもらってかぶり、なかなかおしゃれで素敵なカフェになった。

私はお菓子作り担当になった。

メニュー表を作ったり、お菓子を試作したり、時間だけはたっぷりあったのでやるべきことができたことが嬉しかったし楽しかった。

当日、私はひたすら自宅でお菓子をつくりカフェに届ける、という作業を繰り返し、結局あまりそのカフェにはいられなかったけど、自分が作ったお菓子を食べて喜んでくれる人がいると思うと、自分の存在を肯定してもらえたような気がしてただただ嬉しかった。忙しかったけれど、充実感でいっぱいだった。

カフェの営業が終わったあと、風ぐるまのメンバーでカフェの中で鍋をした。疲れながらも歩いてスーパーに行って食材を買ってきて、ぐつぐつと鍋を囲んだ。私は疲れていたし、お腹がすいていたからもりもりと食べた。そんな私を見て、「○○(私)がいっぱい食べていて嬉しい」と言ってくれた。そんなふうに言ってくれて、私もすごく嬉しかった。

冷え込む寒さの中、みんなでその建物の中で雑魚寝をして夜を明かした。寒くて寒くて私は帽子の中に足を入れて寝た。

体感気温は寒かったけれど、心はとても温かかった。あの日のことを思い出すと、今もキラキラと輝いて見える。

温かくて素敵な仲間ができた。

そこからまた、新たな流れができていくのですが、それはまた次回!


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