連載 「こけしの恩返し」02 大学編(2)
私が通っていたのは、美大のデザイン科だった。
実技の課題があり、それをこなす日々だったけれど、そのことに対して違和感を感じることはほぼなかったように思う。
中学生の頃から美術が心の癒しであり支えでもあったし、美術を志す人たちばかりがいる美大予備校というものに出会ったとき、私は居場所を見つけたような気がした。
だから、美術の好きな人たちがほぼみんな、というような環境の美大は、それまでの小中高生活に比べたら比べものにならないくらい、私にとってとても居心地のいい場所だった。
美大の課題の中で、特に覚えているのはアニメーションと、ポスターの課題である。
アニメーションは何枚も何枚も絵を描いてスキャンをし、パソコンに取り込んで動くようにする、という、気の遠くなるような作業が必要になるのだが、私は毎回とりかかるのが遅かったり題材が決まらなかったり計画性がなかったりで、かなり苦戦した。期日に間に合わせられたのは、最後の1回のみだった。
何枚も何枚も絵を描いても、本当に少ししか動かない。それに、動きを描くということには動きを描くための才能が必要で、私にはその才能がなかったし、人を3次元的に表現するデッサン力もなかったし、物語を考えてオチをつけるというストーリー制作能力も乏しかったから、アニメーションには全然向いていない、ということを初めてすぐ自覚した。それでも、課題はやってきた。
当時、デザイン科でのアニメーションは熱かった。先輩で賞を取った人が何人もいたし、アニメーションが素敵に作れるとかっこいい!というような風を、私は勝手に感じていた。だから、才能ないけどがんばった。
計画性がないから、課題提出の前は大体徹夜だった。1日2日徹夜したところで解決しないような作業量なので、計画性のない私でも10日前くらいからは必死こきだすのだけど、残された日にちでできること以上のことをやろうとするものだから間に合うはずがなかった。
アニメーションの課題提出日には「講評」というものがあり、大きなスクリーンでみんなの制作した課題を映して先生がコメントするのだが、私の作品がスクリーンで上映されたのはたった1回だったように記憶している。
このままじゃ1回もスクリーンに映し出されることはないぞ、と思った私は、その回だけは本当にがんばった。そしてなんとか間に合わせることができ、自分の作ったアニメーションが大きなスクリーンに映った時には恥ずかしさと嬉しさでドキドキが止まらなかった。全く笑いを意図して作った訳ではないのに、ある場面で笑いが起こり、ああ、人に見せてみないと分からないことってあるんだなあ、、と思った。
アニメーションの課題提出後はだいたいぐったりとしているのだが、あるとき4日間風呂にも入らず家にこもってひたすら作業をし、提出を終えた足で打ち上げに行ったことがあり、調子に乗って酒を飲んだら思いのほか回ってしまい、気持ち悪くなって動けない、という状況に陥ったことがあった。あれは最初で最後の失態だった。あの1件以来、私は酒に対してかなり慎重になってしまい、それが進行した結果、今はほぼ飲むことはない。
つらかったけど、楽しかった。
毎回ヒーヒー言いながらも、そんな状況を楽しんでいたように思う。
ヒーヒー言いながら作った作品ができ上がったとき、それはそれは嬉しくて、達成感でいっぱいだった。つらい減量をして絞りに絞ったボクサーが試合本番終わって思いっきり好きなものを食べる、そんな快感に近いものがあったように思う。
ポスターの課題は、デザインの先生が出した。「identity」をテーマにしたポスターを作りなさい、というその課題は、長い期間をかけて取り組んだ。結構ビシビシ言う先生だったので、その先生の授業の日はみんな緊張感でいっぱいだった。
私はその課題で、広い大地にスコップを1本差した写真を撮って、「この土地(=まっさらな自分)を自分で耕すことでidentityになる」というようなメッセージを考え、ちょうど大学の裏手に広い手つかずの大地があったので、そこに拾ってきたシャベル(ペンキで白く塗った)を差して写真を撮った。
そのシリーズで他に考えられないだろうか、と思った私は、シャベルを持って海へ行くことにした。広くて人のいない砂浜にシャベルを1本差した図なんて、いいんじゃない? と思ったのだ。重いシャベルを持ってたどり着いた場所は二宮駅だった。ちょうどよい閑散とした砂浜があり、そこにシャベルを差して何枚も何枚も写真を撮った。
ひたむきだったなあ、と思う。
課題に対して、割とちゃんと向き合った方なんじゃないだろうか、自分。
イラストも課題で描いたりしていたが、当時の私は色やモチーフの奇抜さにばかりとらわれていたように思う。表現したい気持ちはあっても、どんな方法で、どんなふうに、どんなものを描いたらいいのか、しっくりくるものが見つけられずにいた。だから、勢いだけ、というような絵しか描けていなかった。消化して自分のものにして出す、という作業をするには、私にとってもっとたくさんの時間と経験が必要だったのだ、と今は思う。
それでも、広告やデザインや映像よりも、イラストを描いたり、写真を撮ったり、といった表現方法を、なんとなく選んでいった。
卒業制作に入る前、イラストレーションの先生が言った言葉が重く残っている。
「卒制で方向性を見つけられなかった人は、その後の人生でも方向性を見つけることはできないでしょう。」
この言葉は、
すんごい重さでその後の日々にのしかかった。
卒制で何をつくるか、いつまでも決められなかったのは、その言葉が重すぎたせいも大いにあるんじゃないかと思う。
大学4年で、その後の人生の方向性を決めろだなんて、私には無理だった。
好きな写真とイラスト、どちらかを選べだなんて、できやしない、と思った。
卒制をどの先生の元でつくるかを決めなければならず、決めきれなくて血迷った私は結局写真の先生を選んだけれど、途中からイラストを交え始めたもんだから先生は困惑し、最終的に「私の管轄ではない」と放任された。
私が本当にやりたいことは何?
揺れに揺れた。
写真とイラストの間で、1年かけて揺れまくり、結果さんざんなことになった。(詳細は前の記事「牛小屋おじいさん」をお読みください。)
結局、私はどちらか一つを選べず、どちらも選んで中途半端なことになった。二兎追うもの、一兎も得ず、の権化だった。
でも、今なら思うのです。
両方選んでいいんだよ!って。
何かひとつに絞ることなんて、できなかったらしなくていい。
そんな思い込み、捨てちゃいな!
と。
なんであんなに頭固かったんだろう。
視野が狭かった。
自分で自分を檻の中に閉じ込めていたように思う。
真面目な大学生活だったと思う。
あの頃の自分にできることを、精一杯やったんだと思う。
次回は
大学卒業後、なぞの大学5年生になったお話です!
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