連載「こけしの恩返し」01 大学編(1)
「東京の街にでてきました」という歌詞で始まる、くるりの「東京」。
あの曲を、あの頃の私のBGMにしてあげたい。
「がんばれ」と。
大学進学とともに上京した私の日々は、一言で言えば
「寂しさと不安と悩み」の日々だった。
もともとマイナス思考が強いことを自覚していたが、一人暮らしを始めてその傾向がどんどん強くなっていったように思う。
(一人暮らしの部屋を見つける様子は以前の記事「牛小屋おじいさん」の前半に書かれています。よかったらご一読ください。)
なんにしろ、寂しかった。
ひとりで暮らすのは勿論初めてな訳で、好きでもないアパートに無理矢理押し込まれた感が強かったこともあり(父のほぼ独断でアパートは契約されたので)、なんでこんなところでひとりで暮らしているんだろう、という漠然とした疑問を抱えていたんだと思う。
念願だった第一志望の美大に合格できた喜びや、その大学で学べることの喜びもあったけれど、なんとなく、東京に対する不安やとまどいの方が勝っていた。
東京という初めての土地で会う同級生たちは、なんとなく光って見えて、でも、そのカラッとした人付き合いに距離を感じたりもした。
自分がナチュラルに方言を使っていることにも気付かされた。
あるとき、「行かなんだ」(行かなかった、ということ)と言ったら、
「・・イカ(魚介類のイカ)?・・ナンダ・・??」と言われ、
「行かなんだ、って、方言だったんだ。。。」と初めて知った。
それから少しずつ、ナチュラルな方言に注意するようになった。
山がない景色にも、すごく違和感があった。
それまでの人生、視界の片隅にはいつも山があって、それが当たり前だったから、山がない街の風景というのは大事ななにかが欠落したような不安定さがあり、頭がふらふらするような、水平感覚が狂ったような感じがいつもしていた。
「へんな世界にきてしまったなあ。。」
慣れるまで、数年かかった。
大学生活が始まってすぐのゴールデンウィークに、あずさに乗って実家へ帰ったとき、あまりにも東京の日々が現実感がないものに思え、そのことを父親に話したことがあった。確か父は「家はここ(長野)なんだから、そう思うのは当然だ」というようなことを言っていたように記憶している。
そっか、私の家は長野なんだから、東京は分室のようなものなんだな、と、そのとき多分、私と東京との距離が定義づけられたように思う。
東京は帰る場所ではない。ひとときの学びの場であり、長野が本拠地なんだ、という思いは、良くも悪くもそのあとの東京暮らしのなかでギスギスとした感情を起こす要因となっていった。
私はすごく真面目に大学の授業に出ていた。
大学生活も進むにつれ、大学に来なくなる同級生が出始め、なんか不良っぽくてかっこいいなーなんて思いながらも、私は毎日律儀に大学に通っていた。
授業に出まくっていたのは、授業に出たい、という意識よりも、一人暮らしが寂しいので誰かと話すためには大学に行くしかない、という切実な思いと、目がくらむように高い授業料をはたいてくれている両親のことを思うと、1時限だって無駄にはできない、という思いがあったからだった。
当時私は、バイトしながら大学の課題をやって自分の暮らしも成り立たせる、という技ができるだけの容量がなかったので、暮らしにかかる費用も全て親が出してくれていた。
大学の授業料と生活費の全てをまかなってもらいながら暮らしている、ということは、かなりの負い目に感じていたし、申し訳ないと思っていたから、お金を使うことに対してすごく躊躇があった。できるだけ安い食材を求めたし、交通費を出して都心に行くなんてこともなんだか悪いことしているようで後ろめたかった。
なんとか授業料の元をとろう、という意識から、私は大学の施設を使いまくった。
当時私は写真が好きで、写真の現像所によく通っていた。
暗い現像所の中で、モノクロ写真の現像をよくしていた。暗闇の空間は、実験室のようで、そんなことをしている自分がなにかとても特別なことをしているような気がして、それを楽しんでいたようにも思う。
いろんな種類のカメラも借りた。借りたカメラを下げて八王子の川沿いを夏の超暑い中、ヘロヘロになりながら歩いた。なにか私にしか見つけられない風景はないか、私のオリジナルの視点は何なのか、目をサラのようにして探したけれど、結局私には写真で自分を表現することは無理なのだ、という結論に至った。
写真に対する情熱は、大学卒業を境にあっさりと消えていった。
お金を使うことに抵抗があると言いながら、私はいろんなところへ旅もした。
中でも思い出深いのは、塩尻から幼なじみと一緒に鈍行電車で行ったしまなみ海道の旅と、予備校時代からの友人と行った竹富島への旅だった。
しまなみ海道を自転車で走破する、という私の無謀な旅案に賛同してくれた幼なじみと、青春18きっぷを使って地元の塩尻から1日かけて香川まで行き、翌日愛媛から尾道まで自転車で行ったのだけど、時は夏本番中。ものすごく暑い。よくもそんな時期にそんな挑戦したもんだ、と思うが、それが若さというものなんでしょうね。最初は気持ちよく島の風景なんかを楽しんでいられたが、そのうち、橋を渡るために必ずやってくる上り坂がかなりつらい、ということに気付き始め、最後は意地オンリーでなんとかゴールを切った。が、疲労困憊の私たちは言葉を交わすことさえ疲れるほど疲れてしまい、幼なじみは疲れすぎて夕食も食べられずに寝てしまい、なんだか悪いことしたな、、と思ったという、ほろ苦さ残る旅だった。
竹富島は、どうしても行ってみたくて友人を誘って行ってみたのだが、景色はきれいだし自然はたっぷりだし海はきれいだし最高の場所だった。その旅も時期は真夏、安い民宿の相部屋で他の地域の大学生も泊まっていたのでなんとなく合宿のような気分だった。宿の旦那さんが「ヤシガニを捕りにいく」と言って、夜、みんなを軽トラの荷台に積んで連れて行ってくれた光景が、今でも心の一等地に輝いている。暗闇の中、ゴトゴトと揺られながら、なんかこれってものすごく青春っぽい!と密かに興奮していた。そんな状況に自分がいることがすごく嬉しかった。「ヤシガニのそばには必ずハブがいる」という教訓もそのとき覚えた。夜道を抜けて、星の砂の海岸で星空を見た。最高に素敵な夏の思い出だ。
他にも、八丈島とか、香川とか、伊豆でスキューバとか、ヨーロッパ周遊とか、思えば結構散財していた。
旅に行く、と母に言うと、母はいつも「経験だから」と言って全く惜しみもなく援助してくれた。なんというもの分かりの良い母なんでしょう。。感謝しかありません。
初めて経験した東京の夏は、ぶったまげた。
暑すぎる。。。!!!
これ以上気温って上がるの?!うそでしょ?!と思うくらい、想像をはるかに越えて暑かった。
長野の夏は、とても過ごしやすかったのだ、ということに初めて気付かされた。長野で暮らした夏で、あんな不快を感じたことはなかった。どんなに暑くても空気はカラッとしていたから日陰に行けば涼しかったし、夜はちゃんと涼しくなって窓を開けて寝たら風邪をひくほどだったから、窓を開けても全く涼しさなんてやってこない、逃げ場のない東京の夏は地獄そのものだった。
しかも部屋にはエアコンがついていなかった。
今考えると、よくもあの夏、クーラーも扇風機もなくてやり過ごせたなあ、、、と思う。
暑すぎて部屋にいられないから、図書館に入り浸った。駅前にあった図書館まで、午前中に這うようにして向かい、夕方までいた。
もしくは写真の現像所にいた。
夏休み、人気のない大学のキャンパスに、涼しさ求めて通っていた。
2年目の夏、幸運にも扇風機を手に入れた。
この扇風機、我が家に来た時点で昭和の遺産のような風貌だったから、ほんと何年前のものなんだろう。。
あるときテレビかなにかで、「この機種は使用しないでください」というメーカーの訴求広告を見たのだが、その品番がまさにその扇風機だった。それ以来、いつ火が出るかな。。と思いながらも、もう10数年使い続けている。
この扇風機、正確に言うと、もらったわけではなく借りたのだ。
大学2年の夏、選挙のバイトをしたのだが、そのとき駐在した投票所で一緒に働いていた職員のコヤナギさんが、私が家に扇風機がない、という話をしたら、
「それは暮らせないでしょう! これ家の、使ってないから貸してあげるよ!」と、
自宅から投票所に持ってきていた扇風機を貸してくれたのだ。
そのとき、私は「神様っているな」と思った。
なんというご厚意でしょう。
お金を使っちゃいけない、というがんじがらめの思いから扇風機を買えずにいた私にとって、渡りに舟!とでもいうような、ありがたすぎるご厚意だった。
投票所でのバイトが終わり、コヤナギさんは扇風機と私を車に乗せて大学まで送ってくれた。
「絶対にお返ししますので、電話番号教えてください!!!」と電話番号を教えていただき、でもコヤナギさんは「いいよ!あげるよ!」と言って、颯爽と帰っていった。
その時点で私は夏が終わったら返すつもり満々でいたのだが、扇風機のある生活が快適すぎて、結局そのまま家の子にしてしまった。
いわゆるカリパク、というやつです。
私、悪い子です。
でも、コヤナギさん、「あげる!」とおっしゃっていたし、いいですよね・・・?
あれから4回、あのアパートで夏を越えたが、あの扇風機があったから私は生きながらえることができた、と言っても過言ではない。あの扇風機がなかったら、クーラーなしのあの部屋での夏越しは不可能だった。
コヤナギさんは、私の夏の命の恩人です。
この場を借りて、本当にお礼を言いたいです。
ありがとうございました。
あの扇風機、今も愛用しています。首が壊れて自由が利かなくなってしまいましたが、今も涼しい風を送り続けてくれています。
コヤナギさん、ありがとうございました!!!
とりあえず、今回はここまでです。
ご清聴、ありがとうございました。
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