連載 「こけしの恩返し」04 ギャラリーのバイト編(1)


大学5年生での学園祭を終えた数日後、私はバイトを始めることになった。

風ぐるまのメンバーで、同郷の友人が紹介してくれたのだ。

そこは、「本当にここ東京?」と思うような、山の崖っぷちにあるギャラリー喫茶だった。

面接で初めて伺った日、その外観におののいた。

楽しげな名前の駅で降り、車通りが多く歩道がほぼない上り坂を登っていくと、突如、でかでかとした看板が目に飛び込んできた。その脇には船とかに積む「コンテナー」を2階建てに積み上げた無骨な建物が鎮座。そのコンテナーがギャラリーになっていた。私はその外観を見たとき、地元で見た人気のない寂れたドライブインを連想した。なんか、いかにも美味しくない定食を出しそうなドライブインのうさんくさい雰囲気を、その外観から感じてしまったのだ。(大変失礼なことを申しております。大変申し訳ございません。。)だが、建物の中に入ると、床はアンティークのような深いダークブラウンの板が張り巡らされ、白い壁には油絵が静かに飾られており、落ち着いた重厚な雰囲気で、外観からは想像できないような空間が広がっていた。

面接を受けたのは2階だったのだが、2階は絵の倉庫のようになっていて、窓からはむこうの景色がよく見え、雑多ではあるが落ち着く空間になっていた。

このギャラリー、大丈夫かな。。。

一抹の不安を感じはしたが、採用してくださったし、もう行くしかない。

かくして、その特徴あるギャラリー喫茶での勤務が始まった。

外観に特徴がありすぎるそのギャラリー喫茶は、内情も特徴がありすぎた。

スタッフは、オーナーである社長、そしてその社長の奥さん通称ママさん、それとパートのN子さんの3人が主なメンバーで、忙しいときなどに助っ人でやってくるママさんの姉妹のKさんがいた。

まず、社長の個性がすごかった。なんか、いつも怒っている。額が水平でないと「この絵、曲がってるぞ!」と怒鳴り、作業が遅いと「遅い!」「早く!」と怒鳴り、なにか気になることを発見しては怒鳴っていた。せっかちなのだ。多分、社長の脳内はいつもフル回転で、先へ先へとどんどんその思考は進んでいくから、その思考についてこられない周りの対応がもどかしくてイライラしていたんじゃないかと想像する。

無論、それまでニート生活をしていた私なんて、まさに「のろまな亀」。イライラの原郷となっていたに違いない。ゆっくり作業しようものなら「もっと早く!」という声が飛んできたし、いかに効率よく作業を進めるか、ということを追求している人だったから、何かをカッターで切る、なんて作業ですら「こうするんだよ!」と社長のハウツーを叩き込まれた。

私という人間もなまじ個性が強い方なので、いちいち突っ込まれる度に「私のやり方ってもんがあるんだよ!」と心の中で悪態をついては、もやもやすることが多かった。

あと、社長の怒声はママさんやN子さんに対しての方が強く、社長に怒鳴られている2人の姿を見るのも嫌だった。2人は怒鳴られてもほぼ反抗することなく社長の言う通りに従っていたので、よく耐えられるなあ、、、といつも思っていた。

ママさんは穏やかなほほ笑みと優しい声でいつもお客様を迎えていて、一見すると社長から一歩下がってしとやかに支えるマリアのような存在に見えたけれど、実はかなりの個性派だった。

なんというか、ママさんの住む譲れない世界観というものががっちりとでき上がっていて、その中で生きている人、というような印象を私は持った。社長には社長のやり方があるけれど、ママさんにはママさんのやり方があり、その核の部分はどちらも譲らない。だから、たまに意見が合わないときやお互いの核の琴線に触れたときなんかには言い合いをしていた。そんなときのママさんは強く、ビシッと言って譲らなかったので、実は本当の権力者は社長ではなくママさんだったのかもしれない。

ギャラリーの構造としては、入ってすぐギャラリースペースが広がっていて、右の方へ行くと喫茶スペースがあり、そこではコーヒーやケーキを出していた。土地を深く掘ったか何かで水道からは井戸水が出ており、コーヒーや紅茶などの飲みものにはその水を使っていた。私はママさんからコーヒーの淹れ方も教わり、喫茶業務にも携わっていた。

コーヒーを淹れる作業は好きだったが、それまでただのニートだった私なんかが少し教わっただけのコーヒーをお客さんにお出ししていいものか、という負い目のような自信のなさを感じており、自分の淹れたコーヒーに果たしてお金を払ってもらっていいものか。。。と思い続けながらコーヒーを淹れていた。それでも、「美味しかった」とおっしゃってくださるお客さんもいて、そんなときはほっとした。

あと、社長が異様にモンゴルが好きで、様々な面でモンゴル押しだった。

まず、メニューに「モンゴル茶」があった。

モンゴル茶って、一体何?と、ほぼ8割の方がお思いのことでしょう。

モンゴル茶とは、塩味の効いたミルクティーなのだが、これがなかなか美味しかった。

作り方もかんたん。モンゴルから取り寄せたモンゴル茶の元の粉末をお湯で溶かすだけ!なので、喫茶で「モンゴル茶ください」と言われると気が楽だった。

あと、冬の始めには毎年かなり力の入ったモンゴルフェアが開かれていた。

モンゴルから輸入したファーのようなもこもこのシーツやクッション、くつ下、手袋、セーターなどの毛糸製品、キャメル製品、などなど、冬をあたたかく過ごすためのモンゴル製品がギャラリーいっぱいに並んだ。

その期間中は、「より商品が温かそうに見えるように」という社長の意向に従い、あえて空調は寒めに設定された。売ることに対して、社長は本当にシビアだった。

モンゴルフェアにあわせ、ギャラリーの広い駐車場にはゲルが建てられた。お客さんたち一丸となってゲルは建てられ、その様子はビデオ化され、私の手元にもやってきたが、果たして私は見たのだろうか。。。ゲルの中にもモンゴル製品を置いたり、あと、その中で馬頭琴のコンサートも開かれた。すごいねえ。。ここまでモンゴル押しのギャラリーは、他にはないんじゃなかろうか。

とにかく、普通のギャラリーではなかった。社長とママさんの個性が際立っていたし、社長目線で選ばれた作品も独特だったし、毎月開催する企画展も絵だけではなく、ときにはペルシャ絨毯だったり、あと毎年恒例のモンゴルは必須だったり、私がそれまで持っていた「ギャラリー」というものに対する概念が覆された。

私が思っていた「ギャラリー」とは、銀座界隈でおしとやかに静かに優雅に絵を並べた凛とした空間で、勤める人は静かで文化的でおだやかで、毎日静かに優雅にお勤めするものだ、と思っていたけれど、あのギャラリーはそれとは全く違っていた。とにかく自分たちの足と体力を使ってお客さんを集めていたし、社長はいつも飛び回っていて落ち着いていることなんて滅多になかったし、やっている企画展は個性強めだし、いつもなんとなく慌ただしかった。でも、あれがあの場所でやっていく方法だったんだと思う。

身体を使って汗を流し、なりふり構わずフル回転で必死に日々働いている社長とママさんを見ていると、体力、気力、全てを使ってもなお大変なくらい、運営を続けていくということは本当に並大抵なことじゃないんだなあ、と思わされた。社会の厳しさ、というものに、そこで初めて直面した。


売るためには「接客」という作業が必要になるが、私はその面はからっきしだった。まず、絵は高い。思ったより0が1つ多かったりする。ぽいと出せる額ではない。そんな高価なものを、ついこの前までニートだったような何の経験も重みもない若い娘が「これはですね〜」なんつっていくらセールスしたところで、何の説得力もない。そう思っていたから、絵を売ることには全く関与しようとしなかった。そのことは社長もママさんもなんとなく察していたのか、絵を見ているお客さんがいても、「お前、行け!」と言われたことはなく、いつもママさんかN子さんが接客をしていた。

そんな私でも、リトアニアの小さな安い絵をたま〜に売ることがあり、私の接客がよかったというのではなくただお客さんが欲しくて買ってくださっただけなのだけれど、そんなときは「かよさんが絵を売ったのよ!」とママさんは嬉しそうに報告していて、そんな姿を見ているとこそばゆい気持ちになった。


ギャラリーは自然に囲まれた場所にあり、すぐ裏は人が入れないような鬱蒼とした山だった。その山の間近にテラス席があって、そこでよく昼ご飯を食べた。緑を見ていると、とても心が癒された。木の葉が落ちてくる季節になると、駐車場の掃除が大変だった。ギャラリーのとなりに住んでいるYさんが、いつも外の仕事をしに来てくださっていて、みんなで外掃除をしたりもした。Yさんは社長とうって変わってとても穏やかなおじいさんで、いつも笑顔でニコニコと話をしてくださり、私はそんなYさんにとても心癒されていた。Yさんの笑顔を見ると嬉しくなったし、Yさんと接している時間は心の休息のようだった。


印象に強く残っている業務として、DMの 宛名シール貼り、というものがあった。展示会に合わせて毎回DMを発送していたのだが、確か3000通くらいあっただろうか、そのDMに数日かけて宛名シールを貼るのだ。そのシール貼りにも社長流のコツがあり、その方法を伝授された私は、なぜか誰よりも早くできるように成長してしまい、それからというもの私はシール貼り専門のような扱いになってしまい、DM発送前は丸1日、2階の倉庫にこもってずーっとシールを貼っていた。

2階でひとり、ずーっとシール貼り。苦手な接客をするよりは気が楽だったし自分のペースでやれることもよかったけれど、それなりに辛い作業だった。だって、3000通だよ? 貼っても貼っても終わらない。しかも貼り終わったあとには郵便番号順にして「あいうえお」順に並べる、という作業まであり、なかなかの忍耐力が必要だった。この作業をこなした日々があったおかげで、私は「DMのシール貼り作業が得意です」と履歴書に書けるくらいの技を得たと思う。いいんだか、悪いんだか。


いろんなことを学んだ。社会に出たことのなかった(正確には1週間で首になった)私にとって、あのギャラリーは、社会人になるための学校のような場所だったと思う。あまりにも何もできない私に、きっと社長はイライラしただろうし、ママさんも温かい目で見てくれてる感はあったけれど、もっとできる、と思っていたと思う。実際、ママさんには「かよさんはもっとできる人だと思う」と言われたことがあった。でも、私の中には、どうしても、「なんで好きでもないことをしなきゃいけないの?」という疑問、働くことに対する疑問があり続けていた。そのことが、社長への反抗心にも繋がっていたし、本気で仕事に取り組めない原因になっていた。でも、じゃあ「私の本当に好きなことって何?」とか、「果たしてその好きなことで仕事ができるの?」と問えば全くその検討も自信もなく、どこにこの疑問を投げかけたら答えが出るのか、このもやもやを解消するにはどうしたらいいのか、ただただその場に立ち尽くして悶々とする以外、どこにも糸口がないような気がして不安ばかりが募っていた。


社長とママさんには、ほんとうにほんとうにとてもお世話になったし、こんな私を働かせてくれたこと、見放さずに接してくれたこと、感謝しかない。

ギャラリーを辞めたいと申し出たとき、社長はこう言った。

「退路を捨てろ。」

またここに戻って来ようと思うな、ということ。

もし今から行った先がダメになったとき、またここに戻ればいい、というような生半可な気持ちを持つな、行くと決めた道を突き進め、という、社長なりの愛あふれる言葉だったんだと思う。

ママさんには「いつかそう言われると思っていた」と言われ、これからかよさんは社会で活躍していく人です、と背中を押してくれた。2人とも、私がいつまでもここにいていい人間ではない、という思いを持ちながら、私が飛び立つのを見守ってくれていたように思う。感謝しかない。


社長、ママさん、右も左も分からないような私に、いろいろなことを教えてくださり、気付かせてくださり、本当にありがとうございました。社長とママさんの働く姿勢は、いつも真剣で、厳しくもそこには真心がこもっていたと感じています。社長とママさんのその姿勢は、2年という月日の中で、確実に私の心に刻み込まれました。あれ以来全く会いにも行かず、社長の言われた通り「退路を断って」しまっていますが、お二人の健康と、信念に沿った豊かなご活躍を、心よりお祈り申し上げております。

ありがとうございました。


次回はこの職場で出会った先輩、N子さんのことを書こうと思います。


お読みいただきありがとうございます!







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?