連載 「こけしの恩返し」10 就職、辛くなる編


駆け出し4ヶ月の「楽しくてしょうがない期」は一体何だったのか、と思うほど、2年目越えたくらいからだろうか、タチの悪い就職イヤイヤ期が始まった。

まず、毎日同じ電車に乗って同じ場所へ行き、夕方まで拘束され、夕方また電車に乗って家へ帰る、という、このルーティーン化された日々を過ごすことがどうにもこうにも耐えられなくなってしまった。

同じこと、といっても、仕事の内容は違ったり、電車だって周りの人は毎回違う訳だし、全く全部が一緒って訳ではないのだけど、大まかに見ると私にとってそれは同じことの繰り返し、というふうにしか思えず、この面白くもなくさらに苦痛を伴うルーティーンが嫌で嫌でしょうがなくなってしまったのだ。

なんというわがまま娘でしょう!

そう思われて当然です。

他の人たちが出来るようなことが、私にとってはできないことなのです。

電車に乗りながら、何度も何度も思った。

この電車に乗ってる人たちはすごいなあ、と。

毎日電車に乗って、会社へ行って、仕事をして、また帰る。その繰り返しの日々ができている、この人たち。なんでできるんだろう? 苦痛にならないのかな? 辞めたいと思わないのかな? そりゃ苦痛だろうし、辞めたいと思うこともあるでしょうけど、でも、この電車に乗って行ったり帰ったりしてるってことは、できるってことだよね? なんでできるの? その繰り返しを、なぜ我慢できるの? 私は考えてしまう。そしていろいろ感じてしまう。電車の中でも、新宿駅の人混みの中でも、いちいち小さいことに目が行ってしまう。それをいちいち感じていたら身が持たないから心を閉ざしているけれど、でもどうしても見てしまうんだ。そしてそこから感じてしまうんだ。だから通勤するだけでヘトヘトなんだ。あの空間をすり抜けるだけで、ヘトヘトなんだ。なのに、なんでみんな、毎日できるんだろう。あのおじさんなんて、きっと勤続何十年で、毎日毎日まーいにち電車に乗って通ってるなんて、私には考えられない。その日々に耐えられるってことは、もはや特殊能力だと思う。すごいことだと思う。どうしてできるんだろう?どうして、おじさん???

と、思っていた。

社会人に対して、喧嘩売ってますね。すみません。売ってません。不快に思われたらごめんさない。社会人になりきれなかった人間の戯言と思ってください。


私は、同じことを繰り返す、ということが苦手なのだ。

そして、何かに囚われる、何かに拘束される、ということも苦手なのだ。

就職して2.3年で、ようやくそのことに気付いた。


ものごとがルーティーン化して見えてきたとき、それをどう乗り越えるか。

この辛さを和らげるにはどうしたらいいか、私は考えた。

そして、朝6時台に電車に乗り、会社が始まる1時間前に会社に行く、ということをやりだした。

ルーティーン化した日々の時間帯をずらすことで、新鮮な空気を入れ込んでやろうと思ったのだ。早朝の電車ならそこまで混んでないし、朝ごはんを会社周辺で食べたらちょっと物珍しい感じがしていいのではないか?

やり始めた最初は、なんとなくいい感じがしていた。まず、やはり電車はそこまで混んでない。都心も早朝だと幾ばくか空気も新鮮に感じられ、清々しさがあった。会社の近くでモーニングを食べる、というのも、新しい時間の過ごし方で新鮮ではあった。そしてなにより、遅刻の心配がない。余裕を持って会社へ向かえる。これはいいかもしれない。と、少し思った。

でも、徐々にマイナス点が見逃せなくなってきた。

まず、早起きが辛い。会社行って仕事して帰ってくる、という生活をする中で、毎日6時台の電車に乗るというのは私にとって至難の業だった。そしてそれだけ頑張って乗った6時台の電車でも、まあまあ人は乗っている。いつも乗っていたギリギリ間に合う電車に我慢して乗った方が、早起きの辛さよりはいいんじゃないか、と思ってしまった。あと、朝食も、毎回外でだとお金がかかるし、元々外食が苦手なこともあって、外で食べると落ち着かない。できれば家で食べたい。それに、早く会社に行ったとしても、その分会社で過ごす時間が増えてしまい、拘束されてる感が増してしまった。

私は気付いてしまった。「この生活、逆に辛いんじゃないか?」と。


この早朝出勤、確か1週間くらいで終わったと記憶している。

面白かったのは、一番乗りかな?と思って出社すると、すでに出社している人がいつも2人はいたことだった。しかもその人たち、毎日毎日そんなに早く出勤するという生活を、何年も何年も続けていらっしゃった。上には上がいた。


ルーティーン化が辛くて辛くてしょうがない期は、徐々にではあるが和らいでいき、会社で貰うお給料は我慢賃だ、という言葉を胸に、なんとか通い続けた。なんとか周りの社会人に馴染もうと、社会人的生活に自分を馴染ませようとした。

拘束されてる感を打破するために、昼休みの時間を目一杯使って遠くへ行ったりもした。皇居のお堀沿いを歩いて日比谷まで行ったり、自分の家の最寄り駅から一駅のところまで家賃払いに行ってみたり、コンペの応募に銀座まで行ったりしたこともあった。あと、皇居のお堀沿いに、木々が鬱蒼としていてお堀を見下ろせる場所があって、そこが私の昼の定位置になっていた。お堀の水を見ながら、木の下で、ぼーっとしながらご飯を食べる。ビルの狭間で、日光も感じられない室内にいることが辛かったので、広々とした外の空間で、風や光を感じながら過ごす1時間はまさに救いの時間だった。

ルーティーンの日々の中でいかに風穴を開けるか、ありとあらゆる手段を考え、いろいろと画策していた。その情熱を、きっと仕事にも費やすべきだった、ですね。でも、都心で過ごすということに、そして週5日の通勤生活に、どんどん私は疲弊していったのですね。

私の疲弊とともに、私の仕事も無くなっていった。デザインの仕事が、どんどん減っていったのだ。そもそもこの会社は印刷会社な訳で、私が来るまでデザインの仕事はしていなかったのだから、当然と言えば当然だ。私がたまたま絵を描いたりしていたから、それを気に入ってくれた部長がデザインの仕事を作ってくれたり、デザインの仕事を受けたりしてくれはじめ、それで私にも仕事をさせてくれていたけれど、それも長くは続かなかった。結局、この会社にデザイナーという存在は必要なかったということなんだろう。

ここにずっといるべきではないな、という思いが、どんどんと大きくなっていった。これ以上、仕事のない私に給料を払ってもらうことはおかしいことだし、私は他へ行くべきなのだ、と。

4年間働いた。私の勤続年数最長記録である。


もちろん、楽しい仕事もあった。

「料理カード」という販促用グッズを作る仕事は大好きだった。

経理をしている社員さんが実は栄養士の資格を持っていて、その人がレシピを作り、社長のお宅で調理をして、写真が得意な社員が写真を撮り、私がデザインをする、という、完全社内制作の仕事だった。レシピは実際に調理しながら考えるのではなく、全部想像で考えられるそうで、しかもそれがどれも美味しかったのはほんとうにすごい才能だと思った。料理カードの撮影の日は、経理さんは一日中社長のお宅で料理を作り続け、でき上がった頃にカメラマン(社員)と私が社長のお宅まで行き、スタイリングをして撮影する。その後、作った料理はタッパーに詰められ会社に持って来られ、その日の夜はみんなで料理を食べながら飲む、ということが恒例になっていた。普段食べない手の込んだ料理を食べられ、しかもどれも美味しくて、その料理をみんなでわいわい食べる時間はとても楽しいものだった。

あと記憶に深く残っているのは官庁のポスターの仕事。

官庁のポスターを作って応募して選ばれた会社が採用される、という案件で、簡単に言うとコンペなのですが、これに何度か応募して、3回採用されたことがあった。

採用された時はほんとうに嬉しかった。だって、自分が作ったポスターが、東京都内の各地に貼り出されるのだから。

採用が決まったご褒美に、高級寿司店に部長が連れて行ってくれたこともあった。東京に来て初めて入った回らない寿司屋だった。しかも高級店。高級店の寿司はしゃりが少ないんだなあ、ということを、そこで初めて知った。大変おいしゅうございました。


東日本大震災の日のことも、忘れられない。

お昼過ぎ、2時45分くらいだっただろうか。今までにない揺れを感じて、これはやばい!と思った私は自分の席から立ち上がり階段を下りて外へ出た。外には同じようにビルから出てきたと思われる人たちがいて、自分の会社の壁を見たら、積みあがったレンガのひとつひとつがぐらぐらと右へ左へ揺れていた。今にもレンガにヒビが入ってボロボロ崩れ落ちてくるんじゃないかと思うほどだった。あの光景は忘れられない。

会社の中は落ちたものもあったけれどみんな無事だった。すごいことが起こってしまった、ということが徐々に明らかになっていき、電車が止まって帰れないかもしれない、という事態になっていき、外を見るとズラズラとたくさんの人がヘルメットを被って歩いていて、なんかほんとうにただ事ではないな、という空気感がビシビシしていた。私は帰れないと踏み、会社に泊まることにした。ひとりでひとりの部屋に帰るのが怖かったのもあった。まだ現実を受け入れられない、そんな感じもあった。社長室で、同僚の女子社員と一緒にソファに横になって寝ようとした。夜中、社長室のよく映らないテレビをつけると、信じられないような映像が流れていた。家を、水がどんどん飲み込んでいっていた。ヘリコプターから撮られたその映像は、小さな家が水に浸かり、流され、それはまるで誰かが作った衝撃映像のようで、現実に起こっていることには思えなかった。次の日、朝、新宿まで歩き、そこから電車でなんとか帰ることができた。新宿まで行く道が、何か大きな争いが起きた翌日のような荒れすさみ方をしており、たくさんの人が歩いて家へ向かったであろうことを彷彿としていた。あの、ちょっとグレーがかった朝の空気、あの息を吸うのが苦しく感じた数日間のことは、今でもよく覚えている。


さて、次回は会社のこと、もう少し!

お読みいただきありがとうございました!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?