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天才、和田少年の話

彼はモスクビッチを運転してやってきた。

私が、モスクワに約3年ほど滞在する間、もっとも鮮烈な印象を残した日本人は、後に社会党の国会議員となる石井紘基、その後50年付き合うことになるガンさん、私を題材にして朝日新聞の夕刊小説「19階日本横丁」を書いた堀田善衛などではなく、和田 豊という演劇少年でした。彼はウクライナホテルに小型乗用車のモスクビッチを運転してきます。
ルムンバの学生が何故小型とはいえ自動車を持っているのと聞くと、

「東京で高校を卒業するときに、父親に掛け合って、日本の大学に行く4年分の学費を今、全部ほしいといって,貰ってモスクワに来ました。」

それにしても、何で自動車?と聞くと、

「ここで自動車を持っていると絶対女の子にもてます!」

だってさ!

彼は、ルムンバ大学のガンさんのルームメイトで、私の事務所にきて、私の酒を飲みながらとぐろを巻いていましたが、流石に何かしなければまずいと思ったのか、私には、モスクワ・マーリンキー劇場に行ってチェーホフの戯曲を鑑賞することを勧めて来ました。
(日本には築地小劇場という演劇の聖地がありましたが、この「小」という字は、「マーリンキー」から取ったと聞いています。ロシア語の「マーリンキー」は小さいという意味です。)
マーリンキー劇場の鑑賞券は、なかなか入手困難でしたが、其処はハードカレンシーの威力簡単に買うことができました。チェーホフの戯曲を専門家の解説付きで鑑賞するのは。かなり贅沢な体験です。

ルムンバ大学の1年生はロシア語研修コースで、2年目からはルムンバ大学の専門課程に進みますが、和田君だけは、大学に掛け合ってモスクワ演劇大学に進学することを認めさせました。
そんな我ままが結果として通ることになるのは、彼が当時、日本の社会党の国会議員の息子であったことも関係があったかも知れません。
演劇大学の入学試験は、なかなかの難関で、彼の受験は演出学科でしたが、肉体的訓練音楽的才能、勿論ロシア語など、彼は結局全部クリアしてモスクワ演劇大学の演出学科に入学します。

私の駐在員の任期と彼の演劇大学在籍の前半は重なっていましたが、たった1年のロシア語研修で彼が到達したロシア語のレベルは驚異的で、演出実習の際には、ロシア人俳優に台詞のイントネーションで駄目出しするほどになっていました。

「ちょっとちょっと、ロマノフ王朝時代の貴族が、農奴のイワンに呼びかけるときに君のような言い方をしたはずはない、イワンのウダレーニア(アクセント)の位置が違うと思うよ!」

といった具合です。

彼の女友達は、ルクセンブルク人で、おかげでフランス語英語もかなりのレベルらしく、夏休みには、

「ロンドンのシェイクスピア劇演出の夏季ゼミナールに参加するので、ドルキャッシュが要ります。何ぞアルバイトありませんか?」

などと云ってきていました。

パリの国立高等演劇学校(コンセルバトワール)演劇学教授になる。

私が駐在任期を終えて帰国したあとのことですが、和田君はモスクワ演劇大学卒業後すぐに、オーストラリアのシドニー大学の演劇学教師の募集に応募して、ちゃっかり其処の演劇学教授になります。
其の傍らパリのコンセルヴァトワール(国立高等演劇学校)に手紙を出して彼の尊敬する教授の演出助手に応募します。
まもなく面接に来るように返事が来て、実に簡単にシドニー大学を辞めてフランスに行き、結局最後は、コンセルヴァトワールの教授として就職します。
(今度はフランス語で駄目出ししてるんだろうな・・・)

その後、演劇人生の絶頂期には、日本に帰って松竹演劇の重鎮、宇野重吉とチェーホフの戯曲演出について演出指導みたいなこともしますが、記録として残っている実績は、1982年文学座・松竹提携作品「チェーホフの桜の園」(主演:杉村春子)の演出と脚本の翻訳で名前が記録されています。
池袋のサンシャイン劇場のあと地方公演も行っています。
その後は日本の演劇界との相性があまりよくなかったようで、すでに年寄りが権威を持っていた日本の演劇界では、若すぎる演出家は受け入れられなかったと思います。

私が50歳台になって、二度目の駐在地インドネシアから日本に帰国した頃、彼は東京で小さな演劇教室をひらいていました。
演劇人を目指す若い人が沢山来ていましたが、いかに優秀でも日本の演劇界、芸能界に弟子を人材として斡旋出来るコネクションがないと先々見通しはたちません。

今では彼はどうしているか、情報はありませんが、きっと美女に囲まれて偉そうにしているものと思います。

それにしても、ロシア語と英語とフランス語で、それぞれの国の俳優に駄目出し出来る言語学的才能は驚異的で、うらやましいを通り越してあきれてしまいます。


 


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