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ロイヤル・スイート ポトンガン・ホテル

バナナの正しい食べ方

日本ナイロン糸業界を代表して、平壌に乗り込んだ私は、1週間に及ぶ長旅の後、鉄路で目的地につきました。今回の商談相手である「金剛(クンガン)公司」から人が来ていて、おそらく新築ほやほやの「ポトンガン(普通江)・ホテル」に案内されます。

「石井先生は、スイートルームに、お付の方は同じフロアのツインルームに。」

というわけで、可哀相に友好商社の副社長は、「お付の方」に降格となりました。私は一応日本を代表しており、旅費は業界の割勘ですから、平然としております。
お部屋に案内された私は、不覚にも、「アッ!!」と叫びそうになりました。
スイートルームは、7部屋続きの巨大な区画で、受付カウンターのある玄関の間、2つのベッドルーム、サウナ付きバスルーム、会議室、リビングルーム、キッチンの7部屋で構成されています。入口も正門と通用門の2箇所あるので、寝ていても落ち着きません。
リビングルームには、りんごやバナナを盛り付けたフルーツなども用意されていました。
考えてみれば、当時、北朝鮮でバナナが取れるわけは無いので、輸入品に違いありません。

実は昔、ベトナム、ラオス、カンボジアで活躍していた友好商社の人に、正しいバナナの食べ方を教えてもらった記憶がありました。

「一番危険なのは、両端の黒くなっているところです。ですからバナナは真ん中で二つに折り、端に向かって食べ進み、最後の1cmは残さなければいけません。」

勿論、平壌のバナナは、東南アジアか中南米の社会主義国家からの輸入品の筈です。私も旅慣れたビジネスマンとして、正しい食べ方をして残った皮は、テーブルの上に在った新聞紙に包んでゴミ箱に捨てました。

翌朝、目覚めた私の部屋に、チマチョゴリで正装した60歳台ぐらいのオモニ(お母さん)が、ただならぬ気配で入ってきました。なにやら威厳のある朝鮮語でまくし立てます。

「私は、言葉が分かりません。」  

というと、突然流れるような日本語に変わります。

「貴方は、わが国の偉大なる領袖、金主席のお写真を、ゴミ箱に捨てました!!」
「そんなことはしていません。」
「でわ、これは何ですか?!」

突きつけられたのは、バナナの皮を包んだ、昨日の新聞紙です。
第1面の真ん中に、アフリカから来た100人ぐらいの外交団と記念写真を撮った主席が写っていました。真ん中で、小豆ぐらいのサイズで写っています。

「これは大変失礼しました。小さくてお顔が分からなかったのです、第一私はハングルが読めないので、この写真の意味も分かりません。明日からは新聞は入れないで下さい。」

何とか納得してもらいました。
お付の副社長に報告すると、「危なかったですな!」と云われました。
この国のカレンダーの一月の絵柄は、必ず金色の縁取りを施した金主席の肖像画になっていて、この国では、丁寧に切り取って額に入れて飾るのだそうです。

そういえば、戦前の日本では、皇室がらみの新聞記事、写真は万一下において踏んづけたりしないように、切り抜いて箱にしまい、年末に焼いたりしていた事もあったと聞いた記憶があります。
要するに、天皇が神であった戦前の日本の30年後のコピーなのでした。
                             

案内人先生

商談は、翌日から始まるというので、副社長に声をかけて、あたりを散歩することにしました。支度をして部屋を出ると、突然向かいの部屋から、一人の若い男が出てきました。ホテルを出て普通江(ポドンガン)という市内を流れる川沿いに歩き出すと、例の若い人も5~6メートル後から付いてきます。早く歩いてみても、立ち止まっても其の間隔は変わりません。「尾行」などという言葉は適当ではないぐらい堂々としています。

「あの人は何をしているのですかね?」
「ああ、あれは案内人先生といって、平壌に不慣れな、外国人が道に迷った時などに、ホテルまで案内してくれるのですよ。」
「つまり、ホテル外での我々の行動は全てチェックしているわけですか?」
「まあ、そうとも云えますが、ただ付いて来るだけで、我々の邪魔をすることはありません。」
「でも、私が部屋を出るとほぼ同時に、向かいの部屋から出てきたということは、私の部屋の中もモニターされていますよね。」

それからは自分の部屋の中でパンツ1枚でウロウロしたりできなくなった私は、ある種のストレスを感じ始めていました。勿論、電話も聞かれているに違いありません。 

金剛(クンガン)公司

商談の相手は、金剛公司と言って、設立してからまだ3年目ということでした。今回の商談の特殊性から見て、普通の繊維関係の貿易商社ではないという感じです。事務所もあるのかないのか商談は旧市街の中ほどにある平壌ホテルの会議室が使われました。
私と交渉する相手は、商売人というよりは、元軍人という感じであまり繊維の知識は無いように見えました。
まず私から挨拶を述べます。

「日本の繊維業界を代表して、貴国との商談を始めるにあたり、今後この関係が、互恵的であり、定期的であり、発展的であるように希望します。」

モスクワで公団相手に、100回ぐらい繰り返えした決まり文句です。

「同意します。」

「えっそれだけ?」と云うぐらい簡潔なお返事でした。
商品は、ウーリーナイロンの染め糸、数量と納期は双方ほぼ分かり合っています。後は値段だけですが、これが難航します。相手にとっては日本商人と激しく戦ったという形つくりも大切です。第1日は歩み寄り無く解散になりました。この結果は日本に報告して今後の交渉方針を確認しなければなりません。
国際電話をかけたいと云うと、驚くべき事情が分かります。
民間の外国人が国際電話をかけられる電話機は、商談が行われた平壌ホテルの中二階のロビーの片隅にある電話ボックスの中の1台だけというのです。しかも其の電話ボックスにはドアがありません。日本からの話は、雑音が入り小さくて聞こえません。こちらもだんだん大声になって、盗聴なんかするまでも無く、ロビー中で聞こえます。
金剛公司の日本語通訳、「カンさん」もロビーのソファに座っています。

そこで、私は交渉方針を変更しました。聞かれている「日本への会話」を利用するのです。

「今回、価格的に妥結するのは難しそうなので、一旦交渉を打ち切って日本に帰国する。」

と何も聞こえない電話に向かって、大声で何回も言いました。其のとき、飢狼のような風貌の輸出部長から云われていた事を思い出しました。

「石井君ええな! 交渉事は、先に決裂を決意したほうが勝つんや!」

というわけです。翌日、国際便の航空機、列車の切符を手配してくれる国営旅行社に出向きました。なんとこの事務所も平壌ホテルの中にあります。
まさかと思いましたが、国営旅行社の反応は、明快でした。

「今週中は飛行機も、鉄道も満席ですので来週又来てください。」

鉄道が満席のはずがありません。妥結するまでは帰国させないと云うことです。
ついに、人質になってしまったようです。
翌日の商談では、

「金主席のお誕生日までに、輸入した糸を編み上げて縫製するとすればあまり時間はありません。(お誕生日は4月15日です。)商談を効率的に進めるため、私は今のホテルから、この平壌ホテルに移りたいと思います。」

と提案しました。この提案は積極的な姿勢を示した形で歓迎され早速移動します。今度は普通のツインルームでした。平壌ホテルは町の中心部にあり、戦前から在ったような古びた3階建ての建物です。老舗らしくレストランの味はポトンガンホテルよりは洗練されているように感じました。
こうして、巨大なウーリーナイロン糸商談は妥結しました。しなければ永遠に帰国できないのです。

帰りもやはり北京までは汽車のたびでした。雑踏する北京駅に降り立ったとき、

「ヤーッ、自由は素晴らしい!」

と叫びました。中華人民共和国の北京駅で!!

これには、悲しい後日談があります。
契約のお金は結局送られてきませんでした。
合繊メーカーにとっては、友好商社との間に入っている某総合商社との契約なので、商品を引き渡してお金を頂きましたが、田舎くさい3色に染められた糸は、国内では売れる先も無く廃棄するしかありませんでした。
後で聞くと体育館の跳箱の前に敷いてある体育マットの詰め物になったということでした。
契約不履行の責任は、友好商社に向けられました。当時、北朝鮮をめぐる情勢は、流動的で

「将来、日本との国交が回復したとき、過去に韓国にした賠償金と同じようなものを、日本国政府が払う事になりそうなので、其の中で今回の損失を埋め合わせる。」

という言質を貰ったとか何とか聞きましたが、50年もたてば当然時効ですよね。

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