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レストラン・ウズベキスタン

始まりは「狐うどん」

12月になると、1月2日から始まる商談に備えて、交渉団がやってきます。
クリスマスも正月もありません。
20日過ぎには、準備も山を越え、疲れもたまってきて夕方になると、私の部屋に集まってきてお酒が始まります。
ロシア料理は1~2回で

「あれはもういい!」

ということになるので、誰しも

 「日本の居酒屋が1軒でもここにあれば、いつでも、いつまでも居てやらぁー」


と言い出します。
交渉団の団長は、本社輸出部の次長ですが

 「こんなときは、ケツネうろん(きつね饂飩)みたいな物が欲しいなー」

と、呟きます。
次長は、大の饂飩好きで、甘辛い油揚げの乗った関西風の出汁の利いたきつね饂飩が関東風の蕎麦より絶対うまいと言って譲りません。

其のとき、私のロシア語教授兼通訳のガンさんが余計なことを言い出します。

 「あのー、ご存知ですか、日本の饂飩の元祖はシルクロードに始まっていたらしいのです。」

次長の目がギラリと輝いて、

 「イヤー、始めて聞いたな。どう云うこと?」

ガンさんの話は、いつも小噺(アネクドウト)なのか、本当なのかわかりません。

マルコポーロの東方見聞録(ガンさんの話)

13世紀後半に、マルコポーロは中国を訪れ、元王朝に受け入れられます。彼は、24年かけてイタリアに帰国しますが、中国で食べた麺類が忘れられず、イタリアで紹介します。それがスパゲッテイの起源だという説があります。
当初、中国を訪れる往路は、当然シルクロードで陸路を辿りました。
当時シルクロードは、西中央アジアを通過し、タクラマカン砂漠の北回廊(天山南路)をたどって、中国にたどり着きますが、マルコがたどった中央アジアの古代都市では、「ラフマン」という食べ物が常食でした。
今ではウズベキスタン共和国のブハラ、サマルカンド、アンディジャンなどという町のどこかで、マルコは「ラフマン」を食べたと思われます。
マルコが元王朝に篤く受け入れられ、中国で「ラフマン」を作らせたのではないか。
私は、「ラフマン」こそが中国の元王朝の麺食の起源であり、日本に伝わって饂飩となり、イタリアのスパゲッティになったのではないかと考えています。

700年の時空を越えた壮大な麺類の歴史は、わが輸出部次長をしばし呆然とさせました。

さらにガンさんは続けます。

クレムリンの近くのレストラン・ウズベクスタンでは、ほかにも「プロフ」というチャーハンの原型を思わせるメニューがあり、人参のみじん切りとお米が大量の棉実油で炒められ、其の上に羊肉の照り焼きがどんと乗っているメニューもあります。

もう次長は、何も聞いていません

「石井君、行こう!  ラフマンを食べに!!」

振袖と水着の美女カレンダー

レストラン・ウズベキスタンのような有名料亭は予約が必要です。
でも私には秘策がありました。
案の定、次長とガンさんとその他大勢を引率してレストランの前に行きますと、15人ぐらいが外で列を作っていました。
気温はマイナス10度Cぐらいです。
私はレストランの入り口に立って、

「エタ ヤー(俺だよ)」

と叫びます。
入り口には中から鍵が掛かっていて中で空席が出れば順番に入れるわけですが、ドアから顔を見せた門番は、

「アア、予約の人ですね」

と言ってすぐに私の一行を入れてくれます。
それをみて、ならんで居た人の中から、「エタ ヤー」という人も現れます。
門番は、「カカヤ エタ ヤー(どんな俺ですか?)」と冷たく返します。

私の会社は、海外向けに、豪華なカレンダーを印刷しています。
当時のソ連ではありえないフルカラーのカレンダーで1月の振袖、8月の水着を着た一流モデルの写真が評判で、公団にお渡しする量の何倍かを送ってもらいます。
まずシェレメーチェボ空港で通関時に10%減ってしまいます。
公団に配った後は、無理を聞いてもらうサービス窓口に私が必ず持参します。
私の顔を覚えてもらわないといけないからです。

レストラン・ウズベキスタンの門番も其の一人でした。

レストラン・ウズベキスタンでは、ラフマン、プロフ等はむしろサイドメニューに近く、豪華な肉料理が売り物ですが、私は、この2品のほかは、簡単なおつまみと、白ワインとブランディーを頼みます。
ロシアのぶどう酒の産地は、アルメニア、ウズベキスタンが有名です。
甘口ですが、すばらしく芳醇なフレイバーがあります。
また、西中央アジアは綿花の大産地で、輸出もされていました。
当然、ウズベキスタン料理で使われる油は、綿実油になります。

地下鉄の花売り小父さん!

「ラフマン」を食べ終わって、確かに美味しいのだけれど、お替りを頼むには油が強すぎる
ので、白ワインやブランデイに移行し始めた頃、ユル・ブリンナーのような風貌の人が現れ

「タバコの火をお貸し願いたい」

といってきました。
当時、ガスライターは出たばかりの新商品で、100円の使い捨てライターもロシアでは珍しいものでしたが、誰かがタバコに火をつけていた時に見られていたらしいのです。

この店は、ウズベキスタンからモスクワに仕事でやってくる人たちの溜まり場のようになっていて、帰国する前日はよくここで宴会をしていました。
其の仕事は、国の草原に沢山咲いている草花を小さい束にして新聞紙でくるみ、大型トランクに何百と詰めてきて、モスクワの地下鉄の駅で売るのです。今の時期モスクワには花はありません。
若い人中心に飛ぶように売れます。コストはアエロフロートの切符代だけです。
かなりぼろい商売だったようで、このレストランの常連客です。

「買いたいセイコー」ではありませんが、借りた百円ライターを返してくれません。
ガンさんが、これは使い捨てで、外から見えている液体ガスがなくなると捨てるしかないのだと説明しますが、

「国に帰って、宴会でこのライターで火をつけて、驚かせたいのだ。」

といいます。
この店で、ウズベキスタンの人と揉めるのは、後々良くないので、

「わかりました。あまり高価なものではないので、差し上げましょう。」

というと、こちらが引くほど喜んで、店の支配人を呼び、

「コニャックを2本こちらにお届けするように!!」

と叫びました。私もニコニコ笑いながら、

「皆さん、1本50円のブランデーですが、飲んじゃいましょう!」

と調子に乗ります。お店の看板近くまで飲んで、帰りにお勘定を頼むと、先ほどの支配人が来て、

「すでに、先程の人が全部支払って帰りました。」

で、其の日、我々の懇親会は100円ですみました。


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